巨大な山門近くの芭蕉の句碑「石山の石にたばしる霰かな」は青葉の中に埋もれている。
  参道は千年祭の飾りつけで満艦飾。塔頭「世尊院」から「密蔵院」にかけて千年祭の展示が行列。ざっと展示を見て石段を登る。
  本堂前には、芭蕉の句にある硅灰石(けいかいせき)の石山が国宝・多宝塔支えて巨大な舞台を形成する。誰もが記念撮影に夢中になる。更に、石段を登ると本堂。  御本尊の観音様に参詣するには、先ず、この地で「源氏物語」を書いた紫式部の像の座る「源氏の間」にお参りしなければならない。ご本尊様より紫式部様という奇怪な仕掛けの寺だ。
  本堂の裏側の山を登る。多宝塔の下、経蔵脇に円筒形の芭蕉句碑「曙はまだむらさきにほととぎす」が紫式部供養塔と仲良く並んでいる。150年ほど前の江戸期の建碑だから文字の風化は激しい。均整の取れた多宝塔は鎌倉期の建築だが、若葉に映えて輝きを増していた。
        
        (三井寺芭蕉句碑:石山寺:藤村文学碑:石山寺芭蕉句碑「石山の」)

幻住庵の芭蕉
  芭蕉が4カ月間起臥した草庵・幻住庵は、石山寺の西側、山を挟んだ国分2丁目の山麓にある。
  駐車場から緩い山道を辿る。樹映は濃く、ぬかるんだ道は足元が暗い。幻住庵旧跡までの間に、芭蕉の句を刻んだ小さな照明塔が立ち並ぶ。その間に5基の弟子たちの句碑も座る。
  息を切らして登りつめると、見事に整備された幻住庵旧跡が登場する。再建された茅葺屋根の山門と庵は芭蕉の旧居にしては立派すぎた(平成3年に再建)。山門の下にはここでの生活を記した、真新しい「幻住庵記」の横長の文学碑。その前にある経塚と句碑「先ずたのむ椎の木もあり夏木立」は古びて、如何にも芭蕉の旧居に相応しかった。「芭蕉はここからの眺望やここでの生活を心から愛した」と読んでいたので眺望を楽しみに訪れたが、期待は見事に裏切られた。

義仲寺に眠る芭蕉
  義仲寺へは琵琶湖湖岸から「ときめき坂」と呼ばれている、膳所駅への坂道を登った。両側にお洒落な店が立ち並ぶ。曲がり角を間違え、右往左往して、辿り着いた義仲寺は寺と言うより、芭蕉記念館の様相。
  案内書よれば、「もともと、源頼朝・義経に敗れた木曽義仲の戦死の場所。尼僧が義仲の供養のための草庵・無名庵を墓所の畔に建てたのが始まり。だが、賊軍の悲しさ、寺は次第に荒廃し、石山寺、三井寺の末寺となって命運を繋いだ。江戸期には芭蕉が再三にわたり来訪して宿舎とした。芭蕉が大阪で亡くなった時の遺言“骸は木曽塚に送るべし”によって墓が建てられた」とある。
  狭い境内は堂宇と義仲・芭蕉の墓を取り囲んで19基の句碑と二基の歌碑が植込に乱立する言霊の地であった。芭蕉の墓を守って、代表句「旅に病て夢は枯野をかけ廻る」「古池や蛙飛びこむ水の音」「行春をあふみの人とおしみける」が立ち並び、伊勢の俳人・島崎又玄「木曾殿と 背中合せの さむさかな」も師匠の墓に寄り添っていた。境内の紅葉が勢いの良い若葉を繁らせていたので墓所の暗さはなかった。
      
     (義仲寺・芭蕉墓:義仲寺・芭蕉句碑「旅に病んで」:幻住庵芭蕉句碑と「経塚」)
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