釈迦堂の前で、漸く、二人の老年客に出逢った。釈迦堂脇の九条武子歌碑などを調べて、引き返そうとすると、「牧水歌碑」の案内標識。100mほど行った所で出逢った若山牧水の歌碑「比叡山の古りぬる寺の木がくれの 庭の筧を聞きつつ眠る」に、新発見だ、と駆け寄る。案内板を見ると「大正7年5月にここ西塔・本覚院に一週間滞在した」とある。「牧水もここに来ていたのか」と思わぬ発見をしたので、駐車場への登り道も足取りが軽かった。
  シャトルバスが到着したのであろうか、十数人の客が降りて来た。西塔の静寂は終わった。
  横川(よかわ)中堂まで4km。時々、琵琶湖が小さな顔を出す。「峠道」と名前の付いた展望広場に出た。
  見事な眺望が眼下にあったが、今日の空気は濁っていてお生憎様。だが、西行の最後の一首がこの辺りで詠まれたのでは・・・と想像すると、西行ファンには聖地の様にも思えた。
  横川は西塔より一段と深山幽谷の気配。ここまで足を伸ばす人は少ない。
  駐車場から800mほど樹海に分け入ると、突然、朱塗りの横川中堂が姿を現した。靴を脱いで薄暗い堂内に入る。物音一つない。手を合わせ、頭を垂れ、一歩でも西行の境地に近づきたいと祈る。
  中堂の正面から登りの細道が濃い樹海に伸びる。少し進むと「虚子塔」の案内標柱。その先には虚子「清浄な月を見にけり峰の寺」立子「御僧に別れ惜しやな百千鳥」の親子の句碑が似た姿で並んでいた。石柱で囲んだ虚子の遺髪塔がひっそり。この山を愛した虚子の願いで建てられたそうだが、ここなら安らかに眠れそう。
  鎌倉の谷戸の山道を歩く気分で元三大師堂への道を行く。静寂が支配する元三大師堂の入口の案内板には「横川で出家した兼好法師がしばしば当地を訪れた」とあった。大師堂前の左右の茂みに稲畑汀子句碑「堂内の明暗霧の去来かな」ほか数基の句碑をみて、比叡山いしぶみ紀行は終わった。
  修学旅行の生徒たちが駆け下りてきた。横川の地まで見学する年齢に達していないのに・・・と妙な感想を抱きながら山を降りた。盛りのウツギとつつじが見送ってくれた。
          
           (西塔・草野天平詩碑:恵売堂・中西悟堂歌碑:横川・虚子遺髪塔)
  比叡山は明暗の激しい世界であった。深い木立の闇の中から、突然、姿を現す堂宇。日差しを浴びて光りを放つその一角が一つの聖地であった。修行の場所として千年以上守り続けられてきた聖地の威厳が其処此処にあった。それにしても、平地の寺を飾る花々を少ししか見かけなかったのは不思議であった。この地の修行の困難さを示しているのだと納得した。
 
熱波の彦根を歩く
  彦根へ着く頃には太陽が一段と強烈になった。先ずは竹生島行きの遊覧船が出る彦根港へ。
  輝きを増した琵琶湖を背景に、小口太郎「琵琶湖周航の歌」歌碑が、整備された小園地に座る。遊覧船に乗って琵琶湖周航に出て見たい気分にさせられる歌碑であった。因みに、この歌の歌碑は琵琶湖を周辺など全国7ヶ所ある。大津の観音寺町で見た碑には「・・偶々、大正7年、クルーの整調・小口太郎君が“琵琶湖周航の歌”を創るや、学生好んでこれを唱し、遂に一世を風靡して今日に至る・・・」とあった。「われは湖の子 さすらひの 旅にしあれば しみじみと・・・」と学生時代に愛唱した歌を口ずさみながら、琵琶湖の湖面を眺めた。
  数分で汗が滴り落ちて来たので、人の気配の消えた彦根港を後に彦根城へ歩く。その道のりは熱せられた鉄板の道であった。
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