比叡山のいしぶみ(2008.05)
比叡山延暦寺(因みに、関西では親しみを込めて“叡山”と呼ぶ)は東・西・横川の三箇所に数多くの堂宇を持つ巨大な天台宗総本山。今回はその総てを見ようと欲張った。
先ずは、根本中堂に参詣。1200年間消えずに点る不滅の法灯が暗い本堂の一隅を照らす。鎮まった堂内に身が引き締まる。中庭の紅葉の若葉が緊張をほぐす。
本堂右前に宮沢賢治詩碑「ねがわくば 妙法如来正偏知 大師のみ旨 成らしめたまへ」(“妙法如来 正偏知とは”御仏の願いがあって総ての人が救済されること“)が居た。遠い昔に訪れた時には無造作に放り出されていたのが、見事に整備されていた。熱心な法華経信者であった賢治の創造の源はここにあるのかと考え込んだ。
根本中堂東側に伸びる百段の急な石段を登って、文殊楼と呼ばれる山門へ。息を切らして振り返ると中堂は地底に沈む風情。山門の左右にいしぶみが並ぶ。お目当の慈鎮和尚「おほけなくうき世の民におほふかな わがたつ杣に墨染の袖」の百人一首歌碑は楼門脇の薄暗い木陰にちょこんと座っていた。有名な歌の碑なのにみすぼらしく、見捨てられた感じであったのは残念。
戒壇院の静寂な佇まいや若葉の輝きを眺めながら、阿弥陀堂への石段を登る。美しい曲線を描く銅板の屋根を朱塗りの柱が支える阿弥陀堂は、薄暗く古びた根本中堂とは対照的に、初夏思わせる日差しを浴びていた。参拝客も少なく、堂宇の右手の吉井勇歌碑「雷すでに起らずなりぬ秋深く 大比叡の山しずまりたまへ」は、歌の通り、鎮まり返っていた。京都に居を構えていた勇は、叡山を愛し、何度も叡山に登り、数多くの歌を残している。まずまずの収穫を得たが、比叡の真髄はここ東塔にはない・・・と先を急いだ。
(根本中堂・宮沢賢治歌碑:文殊楼・慈鎮和尚歌碑:阿弥陀堂・吉井勇歌碑)
東塔から車で5分。西塔の広い駐車場はがら空き。緩やかに緑の海に潜りこむように椿堂への坂を下る。沈むに従って、鳥の澄んだ声と緑の滴りが深山幽谷に分け入る気分を一段と高める。千日回峰の荒行を思い起こしながら歩く。
言葉をそぎ落としてごく少ない言葉で表現する詩人として知られる草野天平の詩碑「弁慶飛び六法」は椿堂と法華堂の分岐点脇に巨大な姿を横たえていた。大岩に天平の癖のあるペン字が躍る。碑面は詩の前半「一つの傷も胸の騒ぎもなく/真になし/そうして終った/独り凝っと動かず/晴れ渡る安宅の空に/知らず知らず涙が滲む/沁み徹る人生の味/成就の味」であったが、碑陰には30行にも達する全文と共に、「松禅院に居を構え、比叡山の総てを愛し、簡素な生活を送りながら“弁慶飛び六法”他の作品を生み出し、昭和27年にその生涯を閉じた。時に42歳であった。・・・天平の詩魂のあまねく翔ゆかんことを」と記されていた。
法華堂・常行堂(この二堂で通称“にない堂”)への道を歩く。高い杉木立が疎らになって、木漏れ日が豊かな場所に出た。緩やかな石段がにない堂へ誘う。石段登り口右手に米田雄郎歌碑「しづやかに輪廻生死の世なりけり 春くる空のかすみしてけり」が、木漏れ日に光る。作者の辞世を味わうには格好の立地であった。
石段を登る。常行堂の脇に「只今常行堂では修行中ですので立ち入りはお断りします」の立看板。思わす運ぶ足もゆっくりとなる。弁慶が担いだ二つのお堂を繋ぐ橋の下を息ひそめて潜る。微かに読経の声が聞こえてきたのは幻聴であったろうか。
橋の所から、釈迦堂に向って急な下りの石段が伸びて、更に地底深く沈んで行くような気分。石段の途中左手の恵売堂が「ここは仏の世界か」と思わせる静けさを見せていた。右脇に、比叡に学び、比叡で野鳥に親しんだ、中西悟堂歌碑「樹の雫しきりに落つる暁闇の 比叡をこめて啼くほととぎす」が草叢に埋もれている。眩しい太陽が苔の絨毯に降り注ぐ。“ほととぎす”に代って”うぐいす“だけが賑やかに騒いでいたのは愛鳥家・悟堂の歌碑に相応しかった。
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