いしぶみ紀行・琵琶湖

堅田は眠っていた
  朝早く大阪を発って堅田(かたた)に着いた。当地は大津市北部、琵琶湖の西岸に面し、中世には水運の拠点として栄えた(その末裔は今も“湖族”と名乗る)町で、近江八景のひとつ堅田の落雁(満月寺浮御堂)で知られている。本堅田部落に入ると古い家並みと水路がいたるところに残り、独自の匂いが漂っていた。
  祥瑞寺前で車を捨て掘割を石橋で渡る。紅葉の若葉と百日紅が鮮やかな前庭は一面の苔で覆われていた。苔の中に森澄雄句碑「秋の淡海かすみ誰にもたよりせず」が鎮まっていたし、芭蕉「朝茶のむ僧静かなり菊の花」は本堂横に居た。狭い境内だが京の寺に居るような気分を味わった。
  隣の光徳寺で岡本一平文学碑「“琵琶湖めぐり”」を訪ね、曲がりくねった町並みを歩く。光徳寺と本福寺の間の古い町屋が其角の旧宅。宝井其角寓居跡記念碑が建っていた。
  本福寺はこの地一番の大寺。三上千那句碑「しぐれ来や並びかねたる鯊(いさざ)」が門を固めていた。右手の先に句碑群。芭蕉句碑「からさきの松は花よりおぼろにて」から宝井其角句碑「雪日や船頭どのの顔のいろ」までずらりと勢ぞろい。本堂裏手の庭でも、芭蕉句碑「病雁の夜寒に落て旅寝かな」、大谷句佛句碑「山茶花の落花に魂や埋もれむ」を見る。さすがに元住職・三上千那が芭蕉の最古参の高弟で、芭蕉も何度も当寺に来泊した所だけに“句碑寺”の様相を呈していた。年代物の這い松の大樹と百日紅が記憶に残る寺であったが、裏庭には勝手に入り込んだので、犬に吼えられ、早々に退散した。
          
                (堅田祥瑞寺・森句碑:堅田光徳寺・岡本文学碑:堅田本福寺・芭蕉句碑)
  本福寺から浮御堂までは近い。浮御堂の門が固く閉じられていたので、湖岸の遊歩道に出て散策。
  カンナに彩られた城山三郎文学碑には大津海軍航空隊予科練を舞台にした「一歩の距離」、堅田で十六夜の月見を催した様子を記した芭蕉俳文碑「堅田十六夜の弁」、三島文学碑には近江絹糸労働争議を題材にした「絹と明察」が刻されていた。
  城山、芭蕉碑からの浮御堂は湖面の上に浮んで美しく、湖の匂いが胸中に充満する。湖は静かに凪いで居て、西に聳える比叡から、「にほてるや凪ぎたる朝に見渡せば 漕ぎ行く跡の波だにもなし(にほ=鳰の海は琵琶湖の別称)と西行の歌が聞えて来た。この詠は、西行が比叡山を訪ねての帰りに、琵琶湖を眺めやり、「わが生涯最後の一首」(生涯に2000首越える歌のむすびの一首)と語ったと伝わる、西行晩年の心中を吐露する絶唱である。琵琶湖の眺望を人生最後の風景として選びとり、雄大な風景の中に消えて行こうとする西行の心象を少しでも理解しようと、穏やかな湖面を眺めやった。
  今一度、浮御堂を訪ねる。開門時間を過ぎているのに、門番が寝坊した所為か、まだ閉門中。境内にある芭蕉句碑「鎖あけて月さし入れよ浮御堂」「比良三上雪さし渡せ鷺の橋」、虚子句碑「湖もこの辺にして鳥渡る(琵琶湖の水中に建つ)などは、昔見たことがあるので、諦めることにした。
  堅田漁港の芭蕉句碑「海士の屋は小海老にまじるいとど哉」を訪ね、漸く、眠りから覚め始めた本堅田の部落を通り抜け、9時前に堅田駅に戻る。
  堅田駅で山科行きの電車を待つ間、比叡の山々を眺める。朝日に映える比叡の連峰を見上げると、二年前の春に駆け巡った比叡山の文学碑の数々が浮んで来た。
   
          (浮御堂・虚子句碑:湖岸遊歩道・城山文学碑:同左・芭蕉文学碑:同左・三島文学碑)
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