嵯峨野を歩く(二尊院・常寂光寺・百人一首)
  小倉山山麓に広がる嵯峨野。もう何度か訪れているが、桜の季節は初めてであった。
  本尊に釈迦・阿弥陀の二如来を祭るので、「二尊教院華台寺」と名乗る通称「二尊院」。
  朱塗りの山門から本堂に続く緩やかな参道を眺める。この広い参道が一番のお気に入りだ。何より広いのが良い。小倉山に向って緩やかに登るのも良い。
  紅葉の季節には一段と華やぐが、新緑の季節も捨てたものではないと思いながら、参道で苔を敷いた「西行法師庵跡」に取り掛かった。記念碑の前に「我がものと秋の梢を思うかな 小椋の里に家居せしより」と記した西行の木碑が添えられていた。
  緩やかな石段をゆっくりと登る。白壁に行く手を遮られた頂上で、桜の花びらを敷き詰めた虚子句碑「散紅葉ここも掃きいる二尊院」と再会。
  本堂の右手に四角い青御影石が座る。碑面には「よろずはの春秋かけてたまごもる 筆のあととはにあらんとおもへど−佐々木信綱」「ここにしてきみがゑがけるみやうわうの ほのほのすみのいまだかわかず−会津八一」「渓仙の墓をもとめて言葉なく われらのぼりゆく落葉のみちを−吉井勇」と三人の歌が彫られている。傍らの椿の花は既に消えていたが、簡素な歌碑は今日も美しかった。
  本堂前をひと際明るくしている枝垂れ桜は今が盛りと見えた。
  今回の目的は藤原定家の庵の跡を訪ねることなので先を急ぐ。本堂の背後に聳える小倉山に向って、誰も訪う人もない山道を、案内板に導かれながら辿る。法然上人廟を過ぎると、杉木立の暗闇が待ち受ける。道は崖の中腹を縫う。300m程で100坪ほどの空地が現れた。「時雨亭跡 藤原定家百人一首選定遺跡」と標柱が寂しく建つ。僅かに残る石組が庵の跡を示すだけの空地であった。住まいにするにはあまりに不便だ。この山道を登り降りするのは大変だったろうが、庵とりまく静寂が、名歌を紡ぎ、撰びだすには必要だったのだろう。
  二尊院から落柿舎を通り常寂光寺までは嵯峨の人気スポット。途中の長神の杜には三年前に造られた園地が広がる。入口に「小倉百人一首文芸苑・長神の杜」の案内図を掲げているが、みんな素通りして行く。こちらはこれが目的地なので、よく整備された苑内に踏み入る。 持統天皇「春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」ほか、新古今集から撰ばれた百人一首の歌碑が18基も並ぶ。
  夫々形の異なる自然石(鞍馬石が多い)に、著名な書家の手が流れる。誰も居ないのを幸いに、「田子浦に・・・」「かささぎの・・・」と碑面を辿り、声を出して読み上げ、連れにチェックをしてもらった。時々、定家が練りに練って百首を選定した庵跡はあの辺りだろうかと小倉山中腹を見上げた。
  落柿舎裏手の弘源寺墓地で、去来の墓と西行井戸・歌碑などを再訪し、菜の花に彩られた落柿舎を遠目で見て常寂光寺の山門に辿りついた。
  紅葉の季節ではないので、ここも訪れる人は少なかった。山門から右手に若葉の紅葉を見ながら石段を登る。仁王門脇に貞信公・藤原忠平の百人一首歌碑「小倉山みねの紅葉こゝろあらば 今ひとたびの御幸またなん」が新緑に包まれていた。
  更に、急な石段を登る。紅葉の季節には頭上が真っ赤に染まる名物の石段だが、結構、きつい。本堂前で、嵯峨野や遠くの京の街並みを見下ろして一休み。「常寂光土」に遊ぶような風情があると寺の名前にもなった庭園に降りた。苔を敷きつめた庭には「藤原定家.小倉百人一首編纂之地」記念碑が以前と変わらぬ姿で立っていた。嵯峨には編纂の地と伝わる場所が三ヶ所もあるが、常寂光寺が最有力と聞く。
               
                                   (二尊院参道:落柿舎春景色:藤原公経歌碑)
                                             −p.03−