末尾に、小さな“悲願”ではあったが、麗々しく「悲願達成」と願い事を添え供えた。先に供えた外国人の写経は、たった2行だけでたどたどしかったが、末尾の署名は墨書で流れるように美しかった。
連れが写経を終るまで、三つ葉ツツジが色鮮やかに咲き競う、本堂前庭で文学碑を探す。 前庭の端、白い築地塀に桜が枝垂れ、咲き誇る。その脇で天を衝く一基の巨大な石碑が大佛次郎文学碑であった。まるで明治の偉人の顕彰碑のようで、文学碑としては今一つの造型であった。
碑面には「苔寺にて。お互いの祖先の日本人が、その時々に築き上げて遺したものを、今の若い人たちがどんな風に見ているのか、尋ねたいことである。亡びたものを、ただ美的な興味で眺めているのか、それともこう乱雑になった世の中にも、自分たちの生活や血につながりのあるものとして、なつかしみ受け取ろうとする心が残っているのか確かめてみたい。(小説『帰郷』「過去の章」一節)」が川端康成の筆で再現されていた。果たして、この問いにどう答えれば良いのかと思案しながらも、傍らの枝垂れ桜があまりに見事なので気もそぞろ。
観音堂の脇から苔庭に入る。いきなり、杉の根元に5cmほどの厚さの苔の群生が現れ引き込まれる。ゆっくりと苔の輝きに見とれ、苔の息に耳を澄ませながら、歩を進める。次第に気分は落ち着いてくる。 初めて訪れてから50年近くも過ぎたが、まだ、観光客の少なかった当時の美しさが残されている。拝観が許可制になってから、もう、随分の年月がたった。押し寄せる観光客から苔庭を護るための処置であったようだが、目的は達成されている様子。
松本清張が「頬ずりしたくなるように、美しくて柔らかいのである。色は陽のあたる所で冴え、陰の部分は沈んだ深味を見せていた(「球形の荒野」)」と描いた世界が次々と現れる。
寝転がって“頬ずりしたくなる”絨毯は、深く沈みこむ色合いで、華やかさは何処にもない。凛と張り詰めた気配が辺りを支配し、時々遠くでコーンと響く、ししおどしが静寂を破る。
曇天から、枯山水を覆い尽くす絨毯の上に、スポットライトが降って来た。照らし出された緑の上に「青苔に散り敷く沙羅の花に雨」と父が残した句がちょこんと乗っていた。何処で見た苔かと聞きただして見たが、無論、答えはなかった。先般、満中陰法要を執り行った父は沙羅の白い花となったのだと、苔の上にそっと置いた。花は静かに釈迦の最後の言葉を告げていた。
「私が死んだ後は、私を頼りにするのではなく、私の教えた法をよりどころとして、自分自身でしっかりと生きなさい・・・この世は苦しい辛いことが多いのだろうか、弟子達よ、私達の生きているこの世界はなんと香しく美しく素晴らしいものなのだろうか」
父の死を契機に、ここ数カ月、「メメント モリ」(Memento mori、死を忘れるな)が脳裏から離れない。釈迦の告げる美しく素晴らしい世界に留まれるのは、一体、何時までなのだろうか・・・。“悲願達成”と願をかけて来たばかりなので、「メメント
モリ」を追いやるべく、「般若心経」の呪文「羯諦羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶(ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそぎゃてい ほじそわか)」と小さく唱えて、石段を登った。
本堂を半ば埋めつくした人々は一体何処に消えたのかと思う静かな苔巡りであった。心安らぐ、なつかしい風景がそこにあった。時々、後先を交代しながら歩いた外国人にはこの薄暗い幽玄の世界がどの様に見えるのかと思案していると、本堂前の明るみ引き出された。枝垂れ桜が一段と輝きを増していたが、今度は心静かに眺めることができた。
(西芳寺・大佛次郎文学碑:西芳寺苔庭)
資料:西芳寺は、奈良時代、聖徳太子の別荘であったものを、奈良時代の僧・行基が寺にした古刹で、暦応2年(1339年)に造園にすぐれた夢窓国師が復興した。約120種の苔が境内を覆う通称「苔寺」。応仁の乱で焼失。江戸時代には洪水に見舞われて荒廃。荒廃した庭園が苔でおおわれるのは江戸時代末期。
『般若心経』は「般若波羅蜜多(空の智慧の完成)の神髄は真言(呪文)である」と述べ、「真言を伝授」することを核心として書かれている。仏教で修めるべき六つの修行(六波羅蜜多)の中の、最後の、最も重要なものが「般若波羅蜜多(智慧の完成)」であると説く。経文にある有名な「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」は解説を読んでも、ちんぷんかんぷんで読み解けなかった。
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