5−6人の人々が下を覗いている。倣って覗いて驚いた。緑の苔、清流を泳ぐ「三島梅花藻(ミシマバイカモ)」、そして円形の湧水池の底から、父が生まれた頃に富士に降った雪が、百年の歳月を経て、湧きあがっていた。
  青から緑へのグラデーションに息を呑む。透明度は抜群で、池の深さは限りない。
  きっと、この池は天に通じているに相違ない。今、その道のどこら辺を父は歩いているのだろうか、と水面から目を離せなかった。小魚が悠々と泳ぎ回っている湧水池を流れ出した水は“ミシマバイカモ“をお供に、キラキラと輝いて柿田川に注ぐ。清冽な流れに心が洗われる思いであった。
  三島梅花藻(ミシマバイカモ)はキンポウゲ科。柿田川を代表する植物の一つで、淡い黄色の花が、梅の花に似ているため、この名前がある。花の咲く時期は5月から9月頃だが、柿田川ではこの時期以外でも見ることが出来るらしい。一生懸命探して見たが、あの可憐な花は見つからなかった。父が摘んでいったのだろうか。
  湧水の中から、斎藤史の「死の側より照明(て)らせばことにかがやきて ひたくれなゐの生ならずやも」の絶唱が湧いてきた。
 歌人・佐伯裕子はこの歌を次のように読み解いた。
  「老母が八十六歳、娘である史は六十五歳だった。一級身障者の老人介護に明け暮れる苛酷な日々に、この歌は作られた。暮らしが荒廃し尽しても生きていれば、それは”生の側”の住人といえよう。だが、果たして”堕ちるばかり”の彼らを”輝く、くれないの生”と呼べるのだろうか・・・。煩悶しながら、老母と夫の”荒廃の姿”を見つめる作者が浮かんでくる。それでも、それだからこそ、と一首は訴える。どのように短い生命でも、どれほど悲惨な生存であろうと、それでも”死の側”から照らして見ると、彼らは、いかに煌々と、ひたくれないに息づく”生”であることか。死はわからない。生の意味も知らない。ただわかるのは、ここに生き行くものの輝かしさ、かたじけなさだけだ、と歌う。まるで、生命への信仰告白のような一首である」
  父の介護を始めた頃に出会った歌であった。歳と共に、次第に”堕ちて行く”父を見つめながらの介護であった。一度だけ、父に感想を聞いてみたがだが、軟化が進行した父の脳からは何の反応もなかった。“強い生命への信仰に裏付けられた絶唱“(歌人・佐伯裕子)に励まされ、斎藤史から多くのことを学びながら、この10年を、歩いて来た気がする。
  これから始まる第二幕は、「生ある者はすべて、やがては、堕ちてゆく」ことを覚悟しながら歩かねばならないとの想いが湧いてきた。
  介護の10年。その十倍余の長い年月、「ひたくれない」に生を紡いだ父が、無事に、清浄な湧水のトンネルを抜けて、天に昇ることを祈りながら、公園を後にした。
  少し気温が下がって来た「柿田川公園前」のバス停で、「三島駅」行きの、バスを待った。
  雲に隠れた富士方角から、父の遺した「大寒や痩せた胸這う聴診器」の句が聞こえて来たような気がした。
                  

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