周りを和式の墓碑が取り囲む墓地で、特異なデザインの、堂々たる奥津城であった。が、「全ては大仰に、名誉ある沼津市民として、あの“孤独”もどこかに吹っ飛んでしまったような華やかな記念碑と化している」と記した先人と同様に、“仰々しい”印象は否めなかった。『パリに死す』を三度も読みとおした愛読者としては、“文壇に属さない作家”“富士のように孤高を貫いた”光治良には、いま少し小さく、簡素な墓であって欲しかった。それにしても、92歳で眠りに着く直前まで、大作を書き継いだ光治良には、墓碑銘“孤絶に生きて ひたすら ただ 書いた”よく似合っていた。墓碑銘を、これからのお守りにと、ポケットに仕舞いこんだ。
芹沢光治良(明治29年−平成5年):現在日本ではあまり知られていない作家であるが、フランスを中心として、ヨーロッパで圧倒的に評価が高く、中でも、『巴里に死す』によってノーベル文学賞候補にも挙げられた。愛読した『パリに死す』は作者初の仏訳された作品。フランスで子供を産み、結核で亡くなるまでの短い結婚生活を綴った女、伸子の手記を柱にした、ヒューマニティ溢れる素晴らしい一冊。第二次大戦末期の最も凄惨な状況において書かれており、主題が生命の尊厳であることは言うまでもない。晩年の大作『人間の運命』(全3部14巻・芸術院賞、芸術選奨)は、明治、大正、昭和の3代にわたる時代の記録でもある。厳しい環境にも負けない人間の成長を描いて、多くの読者のこころを揺さぶり続け、日本にも初めて大河小説が誕生と絶賛をあびた。芹沢作品の一冊の帯には次の言葉がある。“良心の文学。疲れ切り、乾いた心に慈雨のように染み入る言葉。他者を自然に思いやる、日本人が忘れかけたヒューマニズム…。私たち現代人にとって.芹沢文学はキラキラ輝く宝物のようだ”。芹沢光治良を良く紹介しているので書き記しておきたい。

  沼津の中心街へ戻るバスを待った。
  光治良と同じ時代を、12年も長く、生き抜いた父へと思いは飛んだ。
  「死者は生きのこった人の記億のなかにしか生存できないという。人の記憶は時とともにうすれて、やがて死者も生きのこった人の記憶に存在することが難しくなるであろうし、生きのこった人自身、この世を去ってしまう時が来るが、その時死者がこの世にかけた願望や精神はどうなるのであろうか」と光治良は書いている。そうだ、まだ、父は私の中で生き残るのだ・・・と考えている内にバスがやって来た。
  平町の山王神社に松尾芭蕉句碑「都出て神も旅寝の日数哉」と菅原道真の歌碑「東風ふかばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘るな」を訪ねた。何れにも咲き残った梅の花が碑面を飾っていた。
  未だ日差しは高い。次は何処にしようかと思案する。「芹沢光治良記念館」「若山牧水記念館」「千本松原」・・・を再訪する誘惑に駆られたが、未だ見ぬ、柿田川公園を選んだ。
  折よく、タクシーがやって来たので手を挙げた。10分ほどで柿田川公園に着けてくれたが、気を利かしてか、土産物屋の立ち並ぶ一角に降ろされた。「湧水群」の看板があるが、一向に、写真で見た柿田川は姿を現さない。代って、満開の「おかめさくら」が手招きする。傍らの土産物屋を覗き、矢印の看板に導かれて進むと、走って来た国道に出てしまった。どうやら、公園に隣接する一角に案内されたようであった。お蔭で満開の桜を見ることが出来たのは何よりの土産であった。
  「正門から真直ぐ進むと歌碑があります」と沼津市役所で事前に聞いていたので、正門から園内に入る。湧水を引きいれた澄み切った池から、青空に、水が吹きあがる。満開の紅梅が池を飾る。その向こうに巨大な石がでんと座る。岩のような碑面には「天地のこころあらはにあらはれて 輝けるかも富士の高嶺は」と牧水門下の大悟法利雄の歌が刻まれていた。
  
                 (香貫山山麓の木蓮:市営墓地・芹沢光治良墓域:同墓碑:柿田川公園・大悟法歌碑
  「これでいしぶみは終わりだ、さて、TVで見た柿田川は何処だ」と辺りを見渡す。歌碑の先の草むらから人が湧いてきた。近寄ると、急な階段が下方に延びる。階段は柿田川の河畔に延び、終点には、「第二展望台」と記されていた。


                                         −p.03−