沼津市役所隣の、文化ホールの庭にある芹沢光治良と井上靖の碑は以前に訪ねていたが、ホールの壁面を飾るプレートは見逃していた。この地は光治良や靖が学んだ”沼津中学校”の跡地。ホールの前庭には、それを記念して、旧制沼津中学校校歌碑を挟むように光治良碑、靖碑が富士を背景に建っている。
  黒御影石の碑面には、各々、「わが命果てて 天に昇るとも 魂の故里パリ東京に舞いもどるたび 命の故里沼津に飛びて 市民を見守り 幸せを祈らぬ(光治良)」「思うどち 遊び惚けぬ そのかみの 香貫 我入道 港町 夏は夏草 冬は冬涛(靖)」が夏を思わせる強い日差しを浴びていた。
  館内に入る。今日は何の催しもないのか人の気配はない。小ホールへの途上、先ず、井上靖の詩が壁面に嵌め込まれているのを見つけた。クリーム色の御影石に「ふるさと」の詩が刻まれている。
“ふるさと”という言葉は好きだ。古里、故里、故郷、そして、故園、郷関、・・・故園は軽やかで、颯々と風が渡り、郷関は重く、優秀の薄暮れが垂れこめているが、どちらもいい。しかし、私のもっとも好きなのは、論語にある“父母国”という呼び方で、わが日本に於ても、これに勝るものはなさそうだ。ふるさとはまことに、“ちちははの国”なのである。ああ、ふるさとの山河よ、ちちははの国の雲よ、風よ、陽よ。(詩集「遠征路」に所収)
  照明を落とした壁面に、突然、“ここは中国山脈の稜線 天体の植民地”と靖が描いた、鳥取県日南町の井上靖記念館「野分の館」(第二次大戦中当地に疎開した縁の記念館)の風景が、見事な紅葉と共に、映し出された。前にも書いた、あの真っ赤に燃えた山中にもこの“ふるさと”の詩碑があった。「よくもまあ、“中国山脈の稜線、天体の植民地”まで足を運んだものだと」と懐かしい幻影に、しばらく、時を忘れた。
  階段を数段上った先に、光治良の言葉を刻んだプレートが掲げられていた。
  「とつくにに 死とたたかいし わかき日々 われを鼓舞せし 富岳よ 海よ げにふるさとは ありがたきかな」が、84歳の書とは感じさせない力強さで、壁面を飾っていた。長くパリに住んだ光治良にとって、富士は何にも増して、強い味方であったのだろう。
  高校を卒業するまでの18年間、介護に通った10年間が”ふるさと”と共に歩んだ日々であった。ふるさとを飛び出したデラシネにとっては、靖同様に、ふるさとは“ちちははの国”であり、光治良の“富岳”は“紀の川”であった。通算28年間共に歩んだ”ふるさと”、感謝の念こそあれ、”ふるさとは遠きにありて思ふもの(室生犀星)”から、未だ、抜けだせないでいる。
  
  (文化ホール・井上詩碑:鳥取日南町・井上記念館と詩碑:文化ホール・芹沢詩碑:2008年の鳥取日南町紅葉)
  
  沼津市民が朝夕に仰ぎ見る香貫山が眼前に聳える。この山の裏側にある市営墓地に、92歳で眠りに着いた、芹沢光治良がいる。清々しい冬の富士の姿に、文壇に属さず、死ぬ間際まで世に残る作品を書き継いだ、光治良を重ねながら歩いた。途中、小さな川畔の民家の木蓮が沢山の花を着け、早い春の装いを整えていた。供花に相応しい見事な花々でしばらくうっとりと見入った。
  国道から、香貫山へ200mほど入った所に、斎場と共に小さな墓地が春の日差しに輝いていた。
  入口には「沼津名誉市民・芹沢光治良墓」の案内板。墓地に入ってすぐの左手に、一段と大きな区画があって、そこに光治良が眠っていた。
  手を合わせた御影石の四角い箱型の墓碑は、周りの墓碑と一線を画していた。
  正面に「芹沢光治良 その家族の墓」と刻し、脇に「古ごろもここに納めて天翔けん」と併刻されていた。変っていたのは墓碑の形だけではなかった。墓碑の上には御影石の本が開かれ「自己確立のために/東大 パリ大学に遊んだが/病を得てから 自ら求めて学んだ/イエスに生と愛を/仏陀に死と生を/中国の聖賢に道を/科学者の畏友・ジャックに/大自然の法則と神の存在を/かくて孤絶に生きて/ひたすら ただ 書いた」と墓碑銘が刻まれていた。


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