石像は薄汚れて見捨てられた格好ではあったが、”榮枯は移る世の姿“”昔の光今いづこ“に相応しい記念像であった。苦労して辿りついた先人の紀行文「日本一可哀相な銅像」を思い出し、同じ苦労を味わい、訪ね当てた感慨も伴って立ち去り難かった。「見捨てられた」石像が何時の日にか、復活をとげ、人々の目に留まることを祈りたい。
昭和25年、楽聖を顕彰しようとする多くの人の願いが叶い、同じく竹田出身の彫刻家・大塚辰夫の手で岡城跡に石像が建てられた。ところが、昭和33年に大分市が終焉の地に廉太郎の銅像を建てることから悲劇が始まった。大分市は大塚辰夫の兄の朝倉文夫に銅像制作を依頼した。市長は「二体作ってもらって、一体を竹田市に贈ろう」と考えたので話がややこしくなった。像を贈られた竹田市の関係者は大慌てで新しい銅像の設置場所を探した。朝倉は竹田小学校で廉太郎の3級下の後輩。共に、上京して名を成した仲間だし、美術史に名を残した朝倉の銅像が「岡城跡の特等席」を占めることになった。昭和33年、山を降りた大塚の石像は、廉太郎の母校に姿を隠す運命となった。
  
  東西に流れる二つの川に挟まれた竹田の市街地は、碁盤の目状に区切られ、かつての武家屋敷や宿屋が、時を止め、軒を連ねている。歴史民俗資料館の駐車場に車を停めて滝廉太郎記念館を訪う。
  狭い「廉太郎トンネル」を潜ると、突然、「荒城の月」が天井から降って来た。センサーが働きメロディが流れる仕組みらしい。家々の土壁の向こうに、美しく手入れされた庭が見え隠れする。古い家並の立ち並ぶ一角(景観を守るため、電柱は家の後ろに隠しているとのこと)に、どうだんつつじが真っ赤に燃える。そこが記念館で大勢の人々が群がっていた。立派な門には、未だ、廉太郎の父「瀧弘吉」の表札が残る。屋内の模様は写真で拝見していたので見学は遠慮した。


  「荒城の月」についての土井晩翠の言葉は、この曲を理解する上で貴重な文章なので、一部編集して、以下に記す。
  「東京音楽学校が中等唱歌集の編集を企て、当時の文士にそれぞれ出題して作詞を求めた。私にあてられたのは「荒城の月」であった。この題を与へられて先づ第一に思ひ出したのは会津若松の鶴ケ城であった。といふ理由は蜂じるし白二筋の帽をつけた学生時代ここに遊びて多大の印象を受けたからである。・・・私の故郷の仙台の青葉城 (今その荒廃の趾を前にして私がこの筆を執りつつある)、この名城も作詞の材料を供したことはいふ迄もない。「垣に残るは唯かづら、松に歌ふは唯嵐」はその実況である。・・・詩が出来上がり、作曲者に滝廉太郎が選ばれ、名曲ができた。「荒城の月」は滝廉太郎二十一歳の作である。

・・・今を去ること五年前、瀧君の四十年祭挙行の時も私は招かれて参加した。その折私は左の一篇を霊前に捧げた。
  「歴史にしるき岡の城、廢墟の上を高照らす光浴びつつ、荒城の月の名曲生み得しか/・・・/ああうらわかき天才の音容今も髣髴と浮ぶ、皓々明月の光の下の岡の城」 この詩をたむけた当時と五年後の今日とを対照して感慨無量である。國破れて山河あり、全国が荒城そのものである。私の詩は四十余年の昔に今日あるを豫言したやうな感があるではないか。「天上影は變らねど/榮枯は移る世の姿」・・・ しかしこれを他の一面から考へると春夏秋冬の推し移る通り、全く弱り切つてる冬枯の日本も、いつかは春が來るであらう。この希望を抱き、在来のミリタリズムを振り棄てて祖国愛と人類愛とを兼ねる新天新地の理想を抱き、邁進すべきである。前途は遠いだらうが日本の復興は必ず来ることは私の第六感である。 (昭和22年「荒城の月」のころ)」

  時移り、晩翠の予言通り日本は見事に復興を成し遂げた。「荒城の月」に縁の地を訪ねる旅は回を重ね、ここ竹田で最後となった。晩翠の故郷仙台の青葉城や学生時代を過ごした会津若松の鶴ヶ城、滝廉太郎旧居跡の東京千代田区一番町や幼い一時期を過ごした富山市城跡公園近く、と作詞者・作曲者に縁の地を歩いた。そこには必ず「荒城の月」があった。何れも地も立派に整備され「荒城」の雰囲気は消え去っていた。ここ竹田・岡城跡が一番「荒城の月」に相応しかった。
  「荒城の月」は古風な詩であるが、今尚、人々に愛され続けている。日本各地に存在した荒れた城跡を知る世代の脳裏に刻み込まれた風景が、名曲に耳を傾ける一因となっているに違いない。
          
               (仙台青葉城詩碑:会津若松鶴ヶ城詩碑:東京滝旧居楽譜と詩碑:富山城跡近滝記念像台石詩碑)
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