登った先には鞘堂に覆われた国宝の石仏群が四か所。坂道を登り降りしながら順次拝顔。石仏ながら温かい微笑みに救われる気分。平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫刻された磨崖仏なるも、全部で60体も残り、彩色の残るものもあって、よくぞこれだけの物を・・・と感動を禁じえなかった。大きさといい、数といい、保存状態といい、まさに国宝に相応しいものであった。
  高台から見下ろすと、鈴なりの実を着けた柿とコスモスの群生に縁取られた、草原の中に石が点在する。近付くとなんと、日本と中国の著名人の言葉を刻んだいしぶみ達だった。道順に拾いながら駐車場まで歩く。最後に着いた所に、「深田心の小径」の案内板があり、50基を数える石碑の名前が記されていた。「高村光太郎」「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」の名札があるのを見て、拾った有島武郎碑「容易な道を選んではならぬ 近道を抜けてはならぬ」の教えに従い、駆け足で、引き返す。50基全部を見ることは出来なかったが、予定外の収穫に満足して石仏見学を終えた。
                 
                   (臼杵石仏・第一群鞘堂:臼杵石仏:石仏公園・高村光太郎詩碑)

  竹田・岡城炎上
  竹田市岡城跡入口で巻物を模した案内書(入場券)を購入。そこには「稲葉川と大野川に挟まれた段丘に築かれた城は頂上まで100mほど高低差」とある。「いざ登城」と勇んだもののいきなり急坂。石垣の上から真っ赤な木々が手招きする。本丸までは急坂と石段の連続。息が上がるが見事な紅葉がそれを鎮める。記念撮影の順番待ちの行列を尻目に、木々は燃え盛る。高い石垣は難攻不落の名城の歴史を留め、建築物は全て壊れ、「荒城の月」の舞台装置が揃っていた。
  一汗かいて、登り切った頂上の本丸跡には土井晩翠「荒城の月」詩碑が木漏れ日を浴びて静かに座っていた。「春高楼の花の宴・・・」の歌詞はお馴染だが、刻まれた二番の歌詞はお馴染の「秋陣営の霜の色」ではなく「秋陣営の夜半の霜」となっていた。「なぜか・・・」と碑の裏側を覗くが疑問は解けなかった。
  一段下の二の丸跡では滝廉太郎像(朝倉文夫制作)が、保護柵とてない、深い絶壁を覗き込む。燃え上がる木々がしっかりと銅像を守る。台石に刻まれた朝倉文夫の長文は彫が浅く、ほとんど判読できなかったのは残念であった。
                 
                          (岡城跡・紅葉:同左・滝廉太郎記念像:同左・土井晩翠詩碑)
  今は知る人も少なくなったが、この銅像には物語が隠されている。その物語を確認するためには旧竹田小学校跡地を探さねばならない・・・と燃えあがる城跡と別れて街中の細道を辿った。
  所在地未詳の土井晩翠詩碑「祭詞」を調べていたら、「日本一可哀相な銅像」と題する短い紀行文に出逢った。そこには苦労して滝廉太郎の石像を訪ね当てた記事があった。晩翠の詩碑もそこにあると確信して、旧小学校の跡地、そこに取り残されている廉太郎石像を探すことにした。観光協会、滝廉太郎記念館・・・と尋ね回ったが、「そんな銅像はありません」とつれない返事が続いた。漸く、教育委員会で、旧竹田小学校の所在地と石像の在処が判明した。
  そこは稲葉川の河畔に取り残された空地。竹田高校の横の道は、行き止まりが予想される細い道。恐る恐る車を奥に進めると、校門跡らしき石柱が現れた。荒れ果てた空地に車を止めて辺りを見渡すが廉太郎は居ない。「元の玄関前に居られます」と教えられたので絶対にあるはずだと懸命に探す。岡城跡の山が稲葉川に落ち込む山裾に廉太郎は隠れて居た。  急いで崖をよじ登る。数奇な運命を辿った初代・滝廉太郎像が木々の中に眠っていた。台石には「“荒城の月“の楽譜」、「土井晩翠の祭詞(滝廉太郎40年忌に寄せた詩)の第一連と第四連「歴史にしるき岡の城、廢墟の上を高照らす光浴びつつ、荒城の月の名曲生み得しか/・・/ああ、うらわかき天才の音容今も髣髴と浮ぶ、皓々明月の光の下の岡の城」、「経緯(昭和25年岡城天守閣に建立、昭和33年当局の意向で移設)」を刻んだ銅板が嵌め込まれていた。晩翠の祭詞が深く心に刺さった。
                                            −p.04−