暮れなずむ別府の市街地を走り、今日、最後の碑に向かう。別府タワー近くの「北浜公園」でP・クローデル詩碑「別府にわれ再び訪れん 温かきいで湯と温かきもてなしに・・・(詩「別府を讃える」)」が「ようこそ別府へ」と待っていた。陽はすでに鶴見岳の向こうに隠れ、町のネオンの輝きが増してきた。まだ、17時過ぎだと云うのに秋の日暮は早い。「別府にわれ再び訪れん」と、TV中継で何度も馴染んできた別府マラソンのコースを大分市街へ走った。
          

  大分と臼杵の文学碑
  「大分の日出は6:30」と態々メモして来たのに、勘違いして、6時にタクシーを手配してしまった。夜明け前の暗闇の中、万寿寺に着く。「何事か」といぶかる運転手と別れ、山門を潜る。広い境内、その片隅に芭蕉句碑「花にあそふ虻な喰ひそ友雀」を発見。三人なら怖くはなかろうと、墓地に入り滝廉太郎の墓を探すが徒労に終わる。
  少し明るくなってきた街を大分城跡目指して歩く。中央通りは緑地帯(遊歩公園)を設え、大分市の中心を貫く。その緑地帯の大手町2丁目交差点付近が、昔の稲荷町で、滝廉太郎の終焉地である。記念標柱と記念銅像(朝倉文夫制作)が朝日に光るのを眺めた。
  大通りの突当たりが大分城跡。濠を隔てた東側の園地に北原白秋歌碑「白雉城お濠の蓮のほの紅に 朝眼よろしも妻のふるさと」が静かに座る。大分は、二度の結婚に失敗した白秋を小田原時代から晩年まで支えた、三番目の妻・菊子の故郷。石垣の上から歌碑を見守っていた青鷺は賢婦人の化身のように思えた。
  大失態で始まった朝の散歩であったが、繁華街にはオープンカフェ、官庁街にはお洒落な建築、散らばる記念碑と彫刻の数々・・・好印象の街として心に残った。
  臼杵市へ移動、市の中心を占める臼杵城跡へ登る。本丸跡のグランド脇で野上弥生子文学碑が柔らかい朝の日差しを浴びていた。代表作・「迷路」「実際、僕、いま死んだら生まれてこなかったと同じに、何も知らないで死ぬといっていいでしょう・・・(夏雲の章)」の自筆原稿一枚を銅板に再現して自然石に嵌め込んだ見事な出来栄えであった。
  近くの中央公民館の入口に座る吉丸一昌の詩碑「春は名のみの 風の寒さや・・・(唱歌・早春賦)」を見学。出身地故の建碑であるか、長野県穂高町で常念岳と向かい合っている、同名の詩碑には敵わなかった。
  旧家の並ぶ入り組んだ細道を辿って野上弥生子生家(記念館)へ。当地で名をはせた作り酒屋の昔を偲ばせる風情が今もそのまま残る建屋で、軒下には間もなく始まる「臼杵あかりまつり」のローソクを灯す竹筒が並んでいた。軽井沢の高原文庫に移設されている弥生子の北軽井沢・書斎の秋景色を思い出しながら、臼杵川を渡って吉丸一昌生家(記念館)を訪ねた。こちらは昔風の一軒家であった。
                  
                         (城跡公園・野上文学碑:野上弥生子記念館:吉丸一昌「早春賦」詩碑)
*野上弥生子は、明治18年酒造を営む小手川角三郎の長女として当地で生。14歳で勉学の為上京し、明治女学校に入学。卒業後、同郷の野上豊一郎と結婚。夫の文学的環境の中で自己を啓発、夏目漱石の指導を受けて小説を書き始めた。21歳で処女作「縁」を、以後、99歳で逝去するまで「海神丸」「真知子」「迷路」など多数の傑作を発表。昭和39年に「秀吉と利休」で、女流文学賞を、昭和46年には文化勲章を受章した。
*吉丸一昌は明治-大正時代の国文学者。明治6年当地生。東京帝大卒。東京音楽学校(現東京芸大)の教授。文部省唱歌教科書編纂委員となり、明治末期から大正初期にかけて「お玉じゃくし」「早春賦」「木の葉」「故郷を離るる歌」(ドイツ民謡)など多くの唱歌を作詞した。大正5年、44歳で永眠。


さすが国宝!臼杵の磨崖仏
  臼杵石仏を目指して、市街地から6kmほど、深田の里に走る。入場券売場の脇で、偶然、種田山頭火句碑「しぐるるや石を刻んで仏となす」の出迎えを受け気分が高まる。句から察するに山頭火もこの道を歩いたに違いないと杉林の登り道をえっちらおっちら。
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