名勝「青の洞門」:山国川本流に沿う当地は、競秀峰の断崖がつらなり、鎖渡の難所といわれていた。僧・禅海は、この危険な棧道を見て衝撃をうけ、大誓願を立て洞門開削工事に取り掛かる。寛延3年(1750年)を中心に約30年の歳月をかけて完成。削道の長さは約342m。大正8年、菊池寛の発表した小説「恩讐の彼方に」の舞台で一躍全国的に知られることとなった。

  再び「邪馬台国」の世界へ
  耶馬渓町から玖珠町へ。町境のトンネルを潜ると、明るい玖珠町森部落が待っていた。松本清張の小説で「奴国」と比定されている所だが、素人が訪ねるほどの遺跡がある訳ではない。お目当ては「三島城跡公園」。
  東に扇を開いたような大岩扇山の奇岩群、北に角埋山を臨む盆地に公園があった。大銀杏が見事な黄色の衣装をまとって歓迎してくれる。公園の中心に5mはあろうか巨大な石碑が立ち久留島武彦「童話碑」の太い文字が流れていた。地元の人が近寄ってきて親切に色々と教えてくれた。田山花袋歌碑「森谷の奥に滝あり紅葉あり いざ来りませわれしるべせん」を調べ、古代の道はどの辺りだろうか・・・と大岩扇山の奇岩群に目をやった。

三島公園:旧森藩主の久留島氏は、関ヶ原の戦いで大阪方についたため、領土は没収され海から遠く離れた豊後森に移封された。8代目・通嘉公は、築城が許されなかったため、「末廣神社」改修の際に山門や茶室を持つ巨大な館を建設し、城郭の代わりとした。三島公園はその跡地である。豊後森藩12代藩主久留島通靖の孫にあたるのが童話作家・久留島武彦で、明治7年当地で生。本来なら14代後継者として子爵家を継ぐ身であったが、児童文化の世界で大輪の花を咲かせた。

  
  湯の街で碑を探す

  玖珠ICから大分自動車道に乗る。快適なドライブで豊後富士・由布岳(1583m)の巨大な壁に挑む。湯布院駅万葉歌碑「恋ひつつも居らむとすれど遊布麻山 隠れし君を思ひかねつも(14−3475」と山水館万葉歌碑「未通女(をとめ)らが放なりの髪を木綿(ゆふ)の山 雲なたなびき家のあたり見む(7−1244」を訪ねた。
  「遊布」「木綿」「由布」「湯布」と様々に表記をかえる地名をもつ名湯なるも、温泉の匂いを嗅いだだけで、別府に車を走らせた。
  豊後富士・由布岳の肩を「やまなみハイウェー」で乗り越える。様々な姿に変化する由布岳の姿は見飽きることがなかった。別府・城島高原で高浜虚子親子の句碑を探す。バス停傍と聞いてきたので、楽勝を予想したが発見出来なかった。車は、残念と一緒に、鶴見岳の山麓から、直下の別府温泉鉄輪になだれ落ちた。
  別府温泉では「地獄めぐり」が定番の観光コース。到着したのが16時、閉門が17時。著名な地獄だけでも6ヶ所。全部回りたいが・・・と相談すると、案内嬢は「到底廻れません。1−2ヶ所が精々でしょう」と云う。文学碑のある「海地獄」「ワニ地獄」「血の池地獄」の三ヶ所に絞る。
  1200円の入園料を払って海地獄へ。美しい蓮の池に見とれて、もう少しで、高野素十句碑「海地獄美し春の潮より」を見落とす所であった。アマゾンの大蓮の浮かぶ池の先に、到底百度の熱湯とは思えない冷たいターコイズブルーの地獄。その先にはベンガラ色の地獄、・・・と見ごたえのある地獄が続いた。石蕗ぶきの黄色、地獄の変化に富む色彩・・・モネのパレットを見るような地獄見物であった。
  閉園時間との競争なので駆け足。鬼山(ワニ)地獄は佐々木信綱歌碑湯ふねのゆ ほのあたたかみ わにのむれ そがふるさとを 忘れたるらし」と湯浴みするワニの群れに手を振って、1200円とおさらば。
  別府の北山、血の池地獄で、またまた、1200円を払って、土産物店の中を通り抜け、真っ赤な地獄と対面。虚子の句碑「自から早紅葉したる池畔かな」が地獄を見降ろしていた。句に描かれた紅葉を楽しみにして来たが裏切られた。合計3600円の出費にしては収穫が今一つであった。
               
                            (玖珠町・三島公園より大岩扇山:由布岳:別府海地獄)
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