いしぶみ紀行大分・阿蘇(前篇)


 「邪馬台国」の世界へ
  大分県の文学碑は420基を超える。この地にいしぶみを訪ねるのは初めてなので、限られた時間をどう配分するかで汗を流した。選びに選んだ大分80基、阿蘇23基の訪碑リストを片手に羽田からJALの人となり、海鳥たちを驚かせて大分空港へ。昨今、奈良・巻向(纒向)遺跡の発掘で、またまた、「邪馬台国は大和だ、いや九州だ」と世間が騒がしくなったこともあり、「邪馬台国」の世界の一端を覗くことから旅を始めることにした。
  高速道路を安心院(あじむ)ICで降りた。奇妙なこの町の名前を知ったのは、昔、松本清張の小説「陸行水行」を読んだ時であった。小説によると、「魏志倭人伝」に記された「邪馬台国」へのルートは、末盧(福岡県・呼子」)に上陸し、陸路で、南東の伊都国(福岡県・朝倉市)を通って奴国(大分県玖珠町森)へ。更に、柿の木峠(現・国道387号線)を越えて不弥国(宇佐市安心院町)に向う。不弥国からは水路で、川を下り、周防灘に出て、南下、宮崎県北部の「卑弥呼の邪馬台国」に行った・・・と推理されている。
  安心院は特段変わった町ではなかった。今は、宇佐市(日本各地に点在する八幡宮の総元締め“宇佐八幡宮”で著名)に併合されてはいるが、大分県の北部国東半島の付け根、旧宇佐郡の小さな山峡の町で、観光案内を見ても、気を惹くものはなかった。
  町が作ったピクニックセンター・安心院家族旅行村の入口脇に亀の井旅館。その広い前庭に松本清張文学碑「バスは山路の峠を走るが、その峠を越すと、山峡が俄かに展けて一望の盆地となる・・(小説・陸行水行)」がどっしりと座る。副碑には「松本清張先生文学碑」の文字。「先生」の敬称を付けた所が安心院町らしかった。さすが巨匠!堂々とした文学碑であった。小説の跡を細部に亘って踏破すれば、幾つか「不弥国」痕跡を見つけることも出来ようが、時間が限られていたので耶馬渓に向かった。
『陸行水行』は短編であるが、松本清張の代表作の一つ。「魏志倭人伝」に記された邪馬台国はどこだったのか。古代史にとりつかれた男が、現代の地名に残るかすかな手がかりを基に九州を彷徨う。旅で私が宇佐で出会った不思議な男は、篤学の士なのか、詐欺師なのか?古代史の謎と推理の面白さが見事に結晶した傑作。

  耶馬渓「人群八景」
  耶馬渓に向かって国道500号線を辿る。林道としか思えない狭い国道。この峠の南の方を魏の使者が歩いたと思うと、山肌に一筋の古代の道が浮かんできて、単調な山越えに興趣を添えた。鹿嵐山の峠を越えて本耶馬渓町に入ると漸く国道らしくなる。やがて、紅葉の帯を巻いた奇岩の山が時々顔を出す。圧巻は山腹にへばりつく羅漢寺の異様な風景であった。
  安心院から30km、「青の洞門」の対岸のレストハウス「洞門」に着く。何処から湧いて来たのか大勢の観光客が群がっていた。天下の景勝地・耶馬渓はこの景色なのかと山国川を挟んで奇岩の山々が競い立つ風景(競秀峰)を眺めた。川畔の牧水歌碑「安芸の国越えて長門にまたこえて 豊の国ゆきほととぎす聴く」は奇岩と対峙しつつ、青の洞門を目指す遊歩道の行列を眺めていた。
  車で「青の洞門」を潜り、周りを7−800mの山々に囲まれた渓谷を走る。紅葉は予想より少ない。中津川市耶馬渓支所に車を入れて山国川畔の頼山陽詩碑を探すも、引っ越したのか、見つからず。川畔の真っ赤な紅葉に慰められてすごすごと車へ。
  県道28号(森・耶馬渓線)で南下。山峡の曲がりくねった道を走ること10km。耶馬渓一の紅葉名所「一目八景」に近付くと、俄かに車が増え、道路にまで人が溢れ出す。物産直売所の駐車場に車をねじ込んだが、案内板を見ると「一目八景」はまだ先だ。車を県道に戻して人込みを掻き分けて走る。「一目八景」の近くは土産物屋が立ち並び、焼き鳥の煙がもうもう。駐車のスペースはなく、「人群八景」で終わった。ここから渓流に沿った道が続き、紅葉がトンネルを作り、やっと、紅葉狩りの気分を味わった。
                
                     (安心院町・松本清張文学碑:耶馬渓・競秀峰:耶馬渓・若山牧水歌碑
                                  −p.01−