中岳を下る前に、今一度、草千里の景観を目に焼き付けようと、展望所に車を入れて写真を取りまくった。もうこれで十分とパロラマラインを一気に下り、内牧温泉に繰り込んだ。
       
                               (阿蘇西町・蔵原伸二郎詩碑:阿蘇中岳火口:阿蘇・草千里)
  内牧温泉・黒川河畔に熊本県を代表する歌人・宗不旱歌碑「内之牧朝闇いでて湯にかよふ 道のべに聞く田蛙のこえ」、満徳寺で江戸期に建立された芭蕉句碑「春もややけしきととのふ月と梅」を見て、漱石が投宿して、小説「二百十日」を書いた、旅館・山王閣を訪ねた。
  老舗旅館の趣が残る所であったが、昨今の不景気を反映してか、寂しげであった。良く手入れされた庭園に「夏目漱石先生 二百十日 起稿の宿」の記念碑。台石には「行けど萩ゆけどすすきの原広し」と自筆の句が添えられていた。碑の背後には巨大な漱石胸像が阿蘇を横目で睨んでいたが、奇怪な風貌で、美しい日本庭には似合わなかった。庭の隅で漱石が滞在した部屋を復元した記念館が古びた姿を晒していたので入口から覗かせてもらった。
奥から『「姉さん、ビールもついでに持ってくるんだ。玉子とビールだ。分ったろうね」「ビールはござりまっせん」「ビールがない?――君ビールはないとさ。何だか日本の領地でないような気がする。情ない所だ」・・「ビールはござりませんばってん、恵比寿ならござります」「ハハハハいよいよ妙になって来た。おい君ビールでない恵比寿があるって云うんだが、その恵比寿でも飲んで見るかね」・・・』と「二百十日」の軽妙な会話が聞こえた気がした。
  温泉街の細道を辿り、明行寺の門前に漱石の碑を訪ねる。小説「二百十日」はこの寺から始まる由縁の建碑で、句碑「白萩の露のこぼすや温泉の流」と小説「二百十日」の冒頭一節『ぶらりと両手を垂げたまま、圭さんがどこからか帰って来る。「どこへ行ったね」「ちょっと、町を歩行(ある)いて来た」「何か観(み)るものがあるかい」「寺が一軒あった」・・・』が刻まれた文学碑が午後の秋日を浴びていた。覗いた境内は、大銀杏の落ち葉で一面の黄色に染められて眩い景色を演出していた。
  最後に、中央公園の吉井勇歌碑「白秋もわれもしととに濡れにけり 山荒るる日の阿蘇のよな雨」を見て、内牧温泉を後にした。
  阿蘇に来たからには大観峰からの阿蘇五岳の景観を見なくては帰れない。断崖の曲がりくねった道を標高1000mの高みまで登る。小型のビッツには荷が重い登りだが、最後の頑張りを頼む。登り切った大観峰は駐車するスペースを探すのに苦労する盛況ぶりであった。15時を過ぎて、秋の日差しは一気に弱まった。駐車場入口に、高浜虚子「秋晴の大観峰に今来たり」と門下生の大久保橙青句碑「鷹舞うて阿蘇を遮るものもなく」が背中に弱い秋の光を浴びて仲良く並んでいた。
  茶店から500mほど登った大観峰の頂上には、案内書通り、素晴らしい展望が開けていた。眼下に阿蘇の町、眼前に阿蘇五岳の雄姿。この展望も写真に残すのは難しいと知りながら、何度も、シャッターを押した。「大観峰」と名付け親・徳富蘇峰の書を刻んだ巨大な石碑。碑の側面には「屏列群峰作外輪・・・」で始まる漢詩「波多辺高原」が刻まれていた。
  その碑と並立して、吉井勇の歌碑「大阿蘇の山の煙はおもしろし 空にのぼりて夏雲となる」が阿蘇の白煙と秋の雲を眺めていた。                           
  三日間に亘って駆け巡った、大分阿蘇紀行は終わりに近づいた。カーナビに「大分空港」をセットして大観峰を後にした。
  空港への帰り道に、九重町宝泉寺温泉にある檀一雄の文学碑を訪ねることにした。あまり知られていない文学碑で、所在を突き止めるのに苦労をした。檀一雄が泊まった宿には「檀の湯」と縁の名前の風呂まであるのに、そこの女将もこの碑の存在を知らなかった。若い檀一雄が今は廃止となったJR宮原線に乗って、ひょいと立ち寄った宝泉寺温泉。そこを舞台に展開する「女の牧歌」が文学碑の主題であった。
               
           (阿蘇内牧山王閣・夏目漱石記念碑:阿蘇大観峰・徳富蘇峰碑:宝泉寺温泉檀一雄文学碑

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