逆光なのが残念であったが、白いペンキを入れた碑面には「故郷の山」と題する詩が全節刻まれていた。碑は「わが故郷は荒涼たるかな 累々として火山岩のみ・・・」と詠う阿蘇の山々を背負い、詩人の故郷に溶け込んでいた。埼玉県飯能市の「めぎつね」詩碑以来、親しんできた蔵原伸二郎であった。懐かしい詩人に出会えた満足感で阿蘇中岳(1506m)に駆け上るエネルギーが充電された。
 蔵原伸二郎:明治32〜昭和40。昭和期の詩人。熊本県阿蘇出身。慶大仏文卒業。「コギト」「四季」同人として詩を発表。フランス象徴詩の影響もあるが東洋的詩精神が主調の詩人。1939処女詩集「東洋の満月」、1947「山上の舞踊」、1954「乾いた道」、1964「岩魚」ほか上梓、'版画家棟方志功とも親交を持つ詩人で長く埼玉県飯能市に住んだ。飯能市天覧山麓の「めぎつね」の詩碑を見た時の感慨は、今も、褪せることはない。(詳細「いしぶみ紀行第4号飯能市」参照)
 

   JR阿蘇駅から阿蘇中岳火口まで伸びるパノラマラインを走る。直線距離で2kmほど走ると、「坊中キャンプ場。夏目漱石文学碑」の看板が姿を現した。
  キャンプ場入口の右手に「漱石二百十日遺跡案内」の案内碑。碑の下部には「漱石が遭難した場所は碑の下方キャンプ場から善五郎谷の一帯である」と記されていた。
  「行けど萩ゆけどすすきの原広し」の通り、文学碑までの150mはススキと、萩に代わって、ブタクサが領地争いをしていた。背の高さほどの草原には細い踏みわけ道。「さすが漱石だ。訪ねる人も多いようだ」と呟きながら草地を進む。
  しばらく歩くと前方に二基の碑が現れた。小さい方には「小説 二百十日文学碑」と題して小説の善五郎谷遭難の場面が刻まれていた。「薄の高さは、腰を没するほどに延びて、左右から、幅、尺足らずの路を蔽うている。身を横にしても、草に触れずに進む訳には行かぬ。触れれば雨に濡れた灰がつく。圭さんも碌さんも、白地の浴衣に、白の股引に、足袋と脚絆だけを紺にして、濡れた薄をがさつかせて行く。腰から下はどぶ鼠のように染まった。・・・」と投宿していた内牧温泉から阿蘇登山を試み、直線距離で10km程歩いてきて、善五郎谷で道に迷って難儀する様子が目に浮かぶ。大きい方には「阿蘇の山中にて道を失い終日あらぬ方をさまよう」と題して「行けど萩ゆけどすすきの原広し」「灰に濡れて立つや薄と萩の中」の二句を刻まれていた。
  更に、前方、50mほど先に碑らしきもの。写真で見て、脳裏に刻み込まれたススキが原の碑とは周囲の風景が異なるが、碑の形は似ていた。「旧碑はあれだ」と更に草を掻き分ける。「小説二百十日文学碑」とだけ刻まれたこの碑が、昭和52年に建てられた、元祖の「二百十日文学碑」に間違いなかった。念のため、碑の裏側に廻り込む。そこには間違いなく漱石研究家・有原苔石の撰文で建立経緯などがあった。碑の背後は深い谷で杉林の向こうに阿蘇の市街地が光っていた。ここから阿蘇中岳は相当な距離だし、道に迷わなくとも行き着くには大変だと、往時の登山の厳しさを感じた。
  キャンプ場から少し登ると、視界が一気に広がり、牧場地帯。そこを過ぎると、両側にススキの平原であった。見頃を迎えたススキが、順光に逆光にと、光る。箱根の仙石原ススキも見事だが、これほどのスケールはない。見とれながら走り続けると、米塚が平原の中に姿を現す。大平原にポツンと円錐を建てた景観は阿蘇の名物の一つだ。
  杵島岳を廻りこむと、眼前に艸千里浜の絶景が広がる。
  烏帽子岳(1337m)を背景に、左手に中岳の噴煙、右手に水たまりを広げ、一面の草原が視界一杯に飛び込んでくる。乗馬を楽しむ人、ハイキングを楽しむ人などが豆粒のように点々と落ちている。展望駐車場は満杯の盛況。「いよいよ艸千里だ!」と胸が高鳴る。若い時から、親友と共に、愛読してきた三好達治「艸千里浜」の詩の後半「・・・われひとり齢(よはひ)かたむき/はるばると旅をまた来つ/杖により四方をし眺む/肥の国の大阿蘇の山/駒あそぶ高原の牧/名もかなし艸千里浜」を車窓に浮かべながら走る。二度目の草千里だが感興が前回に比べて一段と深まって来るのは、きっと、この詩句「齢かたむき」の所為だ、帰ったら詩句を写真に仕立てて、先に逝った友に送らねば・・・と思いながら、火口からの白煙を目指した。
  前に来た時には道路はなく、火口まではロープウエイで登ったが、今回は、溶岩地帯を走った。有料道路入口では「火口では有毒ガスが流れています。喘息の方などは通れません」との注意を受ける。いよいよ生きている火山とご対面かと息苦しくなった。火山ガスの所為ではなく、高まる期待からであった。
  実際、火口の凄さには誰しもが仰天する。コバルトブルーの水が白い噴煙の下から顔を出す。壮絶な噴火の跡を残す縞目の火口壁の茶色とコバルトブルーのコントラストが凄い。この景観は到底写真に収めきれないことは承知でシャッターを押し続ける。20分ほど火口付近の絶景を目とカメラの記録素子に焼き付けた。白い噴煙は絶えることはなかったが、避難する程で無かったのは幸いであった。


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