それにしても交通の便の悪い、九州のど真ん中、この大平原地帯に、「よくぞ、文人たちは足を運んだものだ」と昔の難行を偲びながら、文明の利器の力を借りて、牧の戸峠の急坂をこなし、闇をついて、九重高原長者原温泉の宿に走りこんだ。


  夢の大吊橋で空中散歩
  飯田高原九酔渓谷に日本一の大吊橋(高さ170m、長さ390m)が出来たのは三年前。完成直後から評判をとり、付近は大渋滞、駐車場に入るのに2時間待ちの状態が出現するなど話題を呼んだ。橋の上から見ることができる渓谷の紅葉が天下一品と聞いたので行程に組み込んだ。渋滞を避けるには、近くに泊まり、朝一番で駆けつけるのが良かろうと、態々、長者原に宿を取った。
  開門の8時半を目指し、川端康成の文学碑は後回しにして、走りに走った。駐車場に着いたのが8時25分。既に観光バスや、自家用車数十台が席を占め、「本日満員御礼」が予想される盛況が始まっていた。
  高度恐怖症ゆえに果たして渡り切れるかと心配していたが、頑丈な吊橋で揺れは殆ど無かった。おまけに眼下の峡谷の色付き具合は最高潮に近く、赤、緑、黄、茶・・・と盛り沢山の色彩を写真に収めようと歩き回っている内に、恐怖症は次第に消えて行った。速足なら5分で渡り切る橋を往復20分以上かけて絶景を楽しんだ。ヘリコプターに乗った気分で、空中散歩をして、今年随一の紅葉と幾つかの滝をお腹一杯に満たし、「益々メタボに」にとからかわれる事態となった。
  観光案内所があったので、昨夕悔しい思いをした、瀬の本高原の与謝野夫妻の歌碑の所在を調べてもらった。九重町の観光パンフレットに記載されている歌碑なのに、調べるのに10分以上かかったのには驚いた。めったに人が訪れることのない歌碑はどんなものなのか・・・と興味が倍加した。
  飯田高原を走る。往路、目星をつけて置いた「大将軍」と呼ばれる高原の一角にある川端康成文学碑を目指す。車一台がやっとの路肩のスペースに停車して、芝生の上で三俣山(1745m)を眺めている文学碑に駆け寄った。3m近い青石の真ん中に小さな黒御影石を嵌め込み「雪月花時最思友」と彫られていた。裏に回ると、この地を舞台にした小説「浜千鳥」の一節が添えられていた。傍らの案内板には「碑文の“雪月花時最思友”はノーベル賞受賞記念講演「美しい日本の私」の中の詩語で、「雪月花の時 最も友を思う」と先生が解説したもの・・・」との案内が記されていたのは親切な計らいであった。
  三俣山に向って高原を走る。あの山の左手の湿地帯が「坊ガツル」だと見当をつける。芹洋子がNHKの「みんなのうた」で歌った『坊がつる讃歌』「人みな花に酔うときも/残雪恋し/山に入り/涙を流す山男/雪解(ゆきげ)の水に春を知る」は山男の歌として、「雪山讃歌」と共に、愛唱されている。一度、訪れてみたいが、今日の長い行程を考えると、叶わないので昨 夕探しあぐねた与謝野夫妻の歌碑に会いに出かける。
  昨晩のオーベルジュの駐車場に車を止めて丘を駆け上った。こんな辺鄙な所に、お洒落な洋菓子店が・・・と驚きつつ碑を探すも見つからず。店に飛び込んで尋ねると、店員は店の横の林に案内してくれた。確かに林の奥には碑らしきものがある。
  草が一面に生い茂り、そこに至る道もない。草むらに分け入り、薄とブタクサを手で払い碑に近付く。1m程の長方形の碑には与謝野鉄幹の「大いなる師にちかづくと似たるかな 久住の山に引かるる心」が門下生の手で大書されている。が、晶子の歌はない。そんな筈は・・・と苦労して碑の背後に回ると、「久住山阿蘇のさかひをする谷の 外は襞さへなき裾野かな」と晶子の歌が裏面に彫られていた。やっと、辿りついたか・・との感慨はあったが、苦労して探し求めるほど美しい歌碑ではなかったのは残念であった。
  車をやまなみハイウェーに戻し、大分県から熊本県・阿蘇山に向かった。準備してきた大分県の80碑は廻れなかったが、探し当てた55基もの収穫を積んで、小さなビッツは大平原をひた走った。
               
                              (九酔峡夢の大吊橋:九酔峡紅葉:飯田高原・川端康成文学碑)


  阿蘇山麓のいしぶみ達
  ススキの美しい高原道路を快適に飛ばした。阿蘇・宮原交差点から近くの運動公園にある「国木田独歩文学碑」とのみ彫られた碑(副碑に経緯など刻)に立ち寄り、今次の紀行の目玉の一つとして楽しみにしてきた、阿蘇西町の蔵原伸二郎の詩碑に向かった。
  出発前に阿蘇の教育委員会に尋ねると、「国道から一筋北の旧道を走れば見つかります。もし、判らなくなれば、郵便局がありますから、そこで聞いて下さい」との返事であった。車の少ない旧道をゆっくりと進む。郵便局は見つかったが詩碑は現れず。郵便局のドアーを開けて問う。「すぐ先にお寺があります。その先の空地に碑が立っています」と親切に教えてくれた。光徳寺の先はとうもろこし畑。その先が生家の跡で立派な詩碑が立っていた。
  
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