いしぶみ紀行大分・阿蘇(後編)


  久住高原を走る
  少し廻り道になるのだが、平成の合併で竹田市に編入された直入町長湯温泉には「開高健」「椋鳩十」など、多数の文学碑があるので楽しみにして来た。が竹田城炎上に見とれたために、長湯温泉と久住高原、両方を訪ねると夕暮れには間に合わない。迷いに迷った末に、長湯温泉は諦め、久住高原へ直行することにした。
  竹田市から旧小国街道をひた走る。久住町役場を過ぎると、視界は一気に広がり、久住高原に入る。街道は高原地帯を東西に貫く。右手には久住山(1787m)が、左手遠くには阿蘇五岳が遠望できる、爽やかな高原道路である。
  久住山麓に広がる「大分県畜産試験場」にある与謝野晶子歌碑から探訪を始めた。牧の元交差点を右折して、試験場への取り付け道路を走る。周りには人家の陰もない広大な敷地だが、「入口前」と聞いてきたので楽勝を予想した。が、入口に到着しても碑のかけらもなかった。人の気配は無論ない。入口から南に伸びる桜の並木道が手招きするので、辿って見ることにした。300mほど進むと、右手に楢の大木が現れ、その下に石碑が立つ。 「これだ!」と直感する。車を降りて、四角い碑面を確かめる。「久住よし四百の歳ある楢も 門守とする牛馬の家」と確かに晶子の歌があった。碑を覆う大木には「平木のコナラ 樹齢400年」の案内板。昭和6年10月に晶子が当地を訪れて見上げた楢は、今尚、健在であった。
  車を旧小国街道に戻し、高原の秋色を楽しみながらドライブイン「星ふる館」に車を入れる。広い駐車場の片隅に与謝野晶子歌碑「九州のあるが中にも高嶺なる 久住の裾野うらがれにけり」が久住山を見上げている。その先の芝生の園地には晶子歌碑より三回りほど大きな与謝野鉄幹歌碑「大いなる 師にちかづくと似たるかな 久住の山に引かるる心」が久住山と向き合っていた。二つの巨大な歌碑も大平原の中では小さく感じられる。久住山の上部は草原で茶色にくすみ、裾を緑の木々が巻いていた。南に目を転じると、薄暮が迫りくる中、阿蘇五山が悠然と座っていた。
  先を急ぐ。「久住花公園近くの三差路先の雨降り峠、登山口付近」にあると聞き、送ってもらった簡単なマップを片手に徳富蘇峰、北原白秋の碑を探す。久住山を目指して走る。が、行けども現れない。峠らしき登りを過ぎてもない。この道ではないと引き返す。今一度、目を凝らしながら三差路に戻るが見つからず。諦めて旧小国街道を走り始めた途端、案内標柱が現れた。路肩に車を止めて、「やったー」と高原に駆け上る。先ず、徳富蘇峰の漢詩碑「豊嶽は肥豊に画屏の如し・・・(詠:久住高原詩)」が小松の下に現れ、そこから急坂(雨降り峠?)を登った丘の上に北原白秋歌碑「草深野ここにあふげば国の秀(ホ)や 久住は高し雲をうみつつ」が座っていた。辺りに薄暗い空気が立ち込めてきて、靄がかかったようで阿蘇の絶景を見ることもなく車に戻る。
  「あと二つ、あと二つだ」と夕暮と競争しながら、車の往来の少なくなった高原道路をひた走る。50m近く切れ込んだ断崖の脇を猛スピードで走って肝を冷やし、「スカイパークあざみ台展望所」に滑り込んだ。午後5時。売店が終了のチャイムを鳴らす中、展望台の園地で、与謝野晶子の歌碑「久住山阿蘇のさかひをする谷の 外は襞さへ無き裾野かな」と一緒に阿蘇を眺める。スカイパークの名に恥じない展望地であったが、光が薄い夕暮れ前では、広がる紅葉の海も色悪く「残念」が土産となった。
  「今日の紀行はこれが最後だ」と、やまなみハイウェーを登り、九重町筋湯温泉への三差路に向かった。「近くには“岡本美術館”があります。与謝野夫妻の歌碑はその上の方にあります」と簡単なマップを送ってくれた観光案内所の人は教えてくれた。が、車を走らせてみたものの、一向に、それらしきものは現れない。三差路近くのオーベルジュの明かりに車を寄せた。「聞いたことがありません」と申し訳なさそうな答えが返ってきた。辺りには暗闇が立ち込めてきた。これ以上探しても無駄だとハイウェーに戻った。
             
               (久住高原与謝野鉄幹歌碑:同あざみ台・与謝野晶子歌碑:久住高原から阿蘇展望)
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