そんなことを芭蕉は知ってか知らずか、西行ゆかりの遊行柳に心を寄せ、元禄2年(1689年)4月20日(新暦6月7日)、遊行柳に立ち寄った。憧れの遊行柳の地に立った感慨が、名句「田一枚植て立去る柳かな」を吐かせたが、この句の解釈は複雑だ。「田を植えたのは誰か」「立ち去ったのは誰か」で全く趣が異なる。主人公は“芭蕉”、“地元の人(男性、女性)”、“柳の精”・・・と様々な解釈可能だ。西行に心酔し、「道のべに・・・」を知る芭蕉が詠んだ句だから、「たちどまりつれ」に誘われて、西行の世界に入った。その夢想の時間の間に早乙女たちは一枚の田を植え終えた。立ち去る早乙女を見て、「いよいよ白河の関を越えるのだ。先を急がねば」と芭蕉は夢幻の時間から現実の世界に立ち戻り、芦野を立ち去った・・・と解釈したい。
何れにせよ、この地には重層的な時間と空間が存在することだけは確かで、ここには「言霊」が溢れ、飛び交い、ひびきあっている。西行・世阿弥(謡曲「西行桜」)・観世信光(謡曲「遊行柳」)・芭蕉・蕪村・・・・と語り継がれ、読み継がれてきた数々の言葉が青田の上を飛び交うツバメたちのように、次々と現れては消えた。
西行の「道のべに清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ち止りつれ」の歌碑、芭蕉の「田一枚植て立去る柳かな」の句碑、蕪村の「柳ちる清水涸れ石ところどころ」の句碑などが狭い園地に柳の枝に撫でられながら散らばっていた。何れも、想像していた立派なものではなく、小さく、簡素な碑であった。
山裾に鎮座する素朴な温泉神社上の宮を銀杏の大樹が覆う。樹齢300年以上・・・とあるから、元禄2年(1689年)には、若木として、芭蕉を迎えたことだろう。つい先ほど須賀川で見て来た、芭蕉の句「風流の初やおくの田植うた」もここがお似合の場所だ・・・とみどりの中を歩き回り、漂う言霊との会話を楽しんだり、満開の桜に彩られた遊行柳を思い浮かべたりした。挙句の果ては、かわずの鳴き声、水路を走る清水の音に包まれた畦道を西行が、芭蕉が、・・・そしてずっと離れて横町の隠居が縦列に並んで歩いている光景を幻視するまで気持ちは高ぶった。
それにしても、先人の足の速さは驚くばかりで、こちらは、足元を確かめながら、200mほど畦道をおっかなびっくりで追った。那須町が建てた無料休憩所・遊行庵を覗く。60才くらいの女性が土産物の店番をやっていた。「春は田植えの風景を求めて俳句の人々、秋は謡曲「遊行柳」の季節で謡曲関係の人々が多いですよ・・」との話に、この何もない地に潜む言霊の力の強さを実感した。美味しいお茶をご馳走してくれた、芦野で出逢ったたった一人は、親切で暖かかった。
遊行柳は田圃の真中に立つ唯の柳の木。たったそれだけの、ありふれた風景に過ぎない。だが、そこが言霊の地だと知って訪ねれば、芭蕉ならずとも、心が揺さぶられる。その地に至る長い道のりが、心の奥深く眠っているもの、懐かしいもの、忘れてはいけないもの・・・を見せてくれるのであろうか。何でもない風景に潜む、秘密の扉を、たまには、開けてみるのも良いものだと感じながら、一日に4本だけのバスを待った。予定のバスは5分遅れで、無事に「芦野支所前」のバス停に姿を現す。途端に大粒の雨。バスは黒くなった那須野ヶ原の丘を一つ、また、一つと越えて黒田原駅へ走った。乗客は私一人であった。
16:14。黒田原駅発黒磯駅行き電車に乗り、黒磯駅で上野行きに乗り換える。「柿の種」をポツリ、ポツリと口に入れ、缶ビールを飲む。那須の原野はとてつもなく広く、走っても、走っても緑の中であった。芭蕉たちと同じように雨に出逢った・・・とノートに記す。隣のボックスには時刻表を片手に持った「青春18きっぷ」の若者が長旅に疲れた様子で窓の外を眺めていた。白河の関から始まった「那須野ヶ原」は箒川を渡った矢板で終わった。「私の青春切符」も終わったし、「柿の種」も底をついたので、宇都宮駅で新幹線に乗り換えた。満席の人工空間にはビジネスマンが溢れ、旅情はすぐに消えた。奥の細道のひとこまをわずか数時間で走り抜ける、時空を駆け巡った一日であった。
(写真:遊行柳入口:同左・西行歌碑・同左・芭蕉句碑)
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