車に戻り、500mほど先の十念寺に連れてもらう。芭蕉も参詣した、当地の古刹である。山門を入ると、右手に「奥の細道・十念寺」の標柱を従えて、市原たよ女が巨費を投じて建てた芭蕉句碑「風流のはしめや奧の田うゑ唄」が待ち受けていた。咲き始めたつつじが護る句碑は安政02年(1855)建立で、150年以上の歴史を経たに関らず、大いに眼を楽しませてくれた。近くに、この句碑を建てたたよ女辞世句碑「終に行く道はいづくぞ花の雲」もあった。こちらも、芭蕉句碑に劣らず、長い風雨にも敢然と立ち向かっていた。本堂裏手にあるというたよ女の墓参を果たす時間は残されて居なかった。
  出発の遅れはあったものの、何とか目指したいしぶみは見つくした。須賀川駅13:32発のワンマンカーに無事に間に合って、ほっと一息。列車は鏡石、白河を通り、数々の思い出を辿っていると、30分で那須町の黒田原駅に到着した。
         
              (写真:軒の栗遺跡:同左・芭蕉句碑:十念寺・芭蕉句碑)

那須野ヶ原幻視行
  黒田原で下車したのは私一人であった。駅前からタクシーを拾って芦野部落へ6kmをすっ飛ばす。
  奈良・斑鳩の里で法起寺の塔に近づいて行く、あの期待に胸ふくらませる気分をここでも味わいたいばかりに、わざと、1kmほど手前で車を捨てた。
  遠くのみどりの塊を目指して畦道を歩く。四囲を低い山に囲まれた芦野の地。一群の躑躅、山裾の赤い屋根の農家、街道を疾走するトラック、その全てを田植えの終わった青田が取り囲む。みどりの塊が次第に大きくなるにつれて鼓動も大きくなる。遠くの畦道を歩く人の姿もやがて消えて、辺りには人影は無くなった。
  那須温泉にある温泉神社から勧請した、芦野温泉神社上の宮への参道が真直ぐに青田を切り裂く。その中程に向かって、ゆっくり、ゆっくりと歩を進め、若葉を靡かせる二本の柳に近づく。10畳ほどの狭い空間は若葉で充たされていた。向って左側の柳の横に「那須町指定名木・遊行柳」の標識。「樹高10m、幹廻り90cm」とある。西行由縁の地でもあるからか、さくらも植えられていた。
  持参した資料を辿る。室町時代後期に観世信光が創作した謡曲「遊行柳」は、遊行上人(一遍上人)が奥州行脚の際に、老人の姿をした柳の精に出会って、西行が詠んだ「朽木の柳」へ案内された。老人は、上人に念仏を授けられて成仏するが、夜になって再び現われ、上人に柳にまつわる故事をつらつら語り報謝の舞を見せて姿を消す・・・といった筋立てで、能因「都をば霞と共に出でしかど 秋風ぞ吹く白河の関」の歌、西行「道のべに清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ち止りつれ」をはじめとする古今の文字を挙げ連ねている。
  西行の歌は、謡曲「遊行柳」や芭蕉の「奥の細道」に登場するので、この地を訪れ、詠んだものと思っていた。今回の紀行に際して、この伝説の地・遊行柳と西行の関係について色々と調べて見たが直接に関係はなさそうだ。謡曲で紹介された西行の歌もこの地で詠まれたものではない。「西行一代記」によれば鳥羽殿の障子に描かれた柳の絵に西行が書き入れたものだ。二度に亘ってみちのく・平泉まで歩いた西行は「白河の関」を訪れたことは確認されているが、この芦野を訪れたかどうかは定かでなかった。
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