私の「奥の細道」:須賀川の段
  須賀川の宿に着いてから等窮を訪ね、四、五日引き留めらた。「白河の関では、どんな句を詠んで越えられましたか」と等窮が聞くので、「長い旅の苦労のために心身ともに疲れ、その上、すばらしい風景に心をうばわれ、むかしのことを考えると懐かしさに堪えかねて、いい句を作ることができませんでした。しかし、何の句も詠まずに通り過ぎることもできず、『風流の初やおくの田植うた』の句を作りましたよ」と語った。この句を発句にして、脇句、第三句とつづけて三巻の連句ができあがった。
  等窮の家の裏に、大きな栗の木陰を借りて、俗世間を避けるように暮らしている僧がいた。西行が「橡ひろう」と詠んだ深山も、こんなふうであったろうかと思うほどに閑静な風情であった。栗という字は西の木と書くことから、西方浄土にゆかりがあるといって、行基菩薩は、一生杖にも柱にもこの木をお使いになられたそうであると記録に留めた。『世の人の見付ぬ花や軒の栗』(世間を避けるようにひっそりと暮らしている僧がいた。住まいの軒先には、栗の花が人目につかず咲いている。いかにも奥ゆかしいなあ)
私の「奥の細道」:遊行柳の段
  西行が「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」と詠んだ柳は、芦野の里にあり、田の畔に残っていた。この地の領主の戸部氏が「かの柳をお見せしたい」などと、折々に云っていたので、どの辺にあるのかと思っていたが、とうとう今日、憧れの柳に逢うことが出来た。 「たちどまりつれ」に誘われて、私も柳のもとでしばらく休むことにした。「しばし」の間に早乙女たちは一枚の田んぼを植え終えた。立ち去る早乙女を見て、「いよいよ白河の関を越えるのだ。先を急がねば」と芦野を立ち去った。『田一枚植て立去る柳かな』
相楽等窮
  寛永14年(1637年)須賀川に生。本名は相楽伊左衛門、俳号を等窮と称した。等躬は、須賀川宿で問屋を営む傍ら、須賀川の駅長の要職をつとめた。芭蕉とは、問屋の用向きで江戸へ出かけた折、俳諧を通して知り合った仲と見られる。等躬は、俳諧を通じて岩城・平城主の内藤露沾とも交流があり、たびたび岩城・平に出かけた。正徳5年(1715年)、77歳の時に旅先の露沾邸で命を落とした。露沾邸への道中に詠まれたと見られる代表作が句碑にある「あの辺はつくば山哉炭けぶり」である。
有名になった可伸
  生没年不祥。俳号栗斎。俗名、簗井弥三郎。相楽等躬の屋敷の一隅に庵を結んで隠棲したと伝えられる僧。世間から隔たり、等躬屋敷の片隅でひっそりと庵を営む可伸であったが、心ならずも、芭蕉の立ち寄りをきっかけに時の人となり、庭先に植えてある食用の栗の木も一躍名所になってしまった。可伸の戸惑いが、等窮の残した「伊達衣」の中にある。「予が軒の栗は、更に行基のよすがにもあらず、唯実をとりて喰のみなりしを、いにし夏、芭蕉翁のみちのく行脚の折から一句を残せしより、人々愛る事と成侍りぬ。“梅が香に今朝はかすらん軒の栗”」。芭蕉好みの隠者だけに消息詳細は不明。
女流俳人・市原たよ女
  たよ女は、安永5年(1776年)に須賀川の老舗造り酒屋に生まれた。俳句の師は子規の「はてしらずの記」に登場する石井雨孝。31歳の時、夫の有綱を失い、三人の子供を育てながら家業を切り盛りする苦労を重ねた。90歳で亡なくなるまで、4千余りの句を残し、西の加賀千代女、東の市原たよ女と並び称された。現在では、須賀川市民や俳句に興味のある人々しかその名を知られていないが、文部省唱歌「藤の花」には、たよ女の俳句「水嵩に車はげしや藤の花」が引用されている。大正から昭和初期の子供達は学校で教わったので、戦前は全国に知れ渡っていた人物。80歳の時、十念寺境内に建立した芭蕉句碑は、今も、須賀川の誇りとして大切にされている。

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