須賀川の宿に着いてから等窮を訪ね、四、五日引き留めらた。「白河の関では、どんな句を詠んで越えられましたか」と等窮が聞くので、「長い旅の苦労のために心身ともに疲れ、その上、すばらしい風景に心をうばわれ、むかしのことを考えると懐かしさに堪えかねて、いい句を作ることができませんでした。しかし、何の句も詠まずに通り過ぎることもできず、『風流の初やおくの田植うた』の句を作りましたよ」と語った。この句を発句にして、脇句、第三句とつづけて三巻の連句ができあがった。
等窮の家の裏に、大きな栗の木陰を借りて、俗世間を避けるように暮らしている僧がいた。西行が「橡ひろう」と詠んだ深山も、こんなふうであったろうかと思うほどに閑静な風情であった。栗という字は西の木と書くことから、西方浄土にゆかりがあるといって、行基菩薩は、一生杖にも柱にもこの木をお使いになられたそうであると記録に留めた。『世の人の見付ぬ花や軒の栗』(世間を避けるようにひっそりと暮らしている僧がいた。住まいの軒先には、栗の花が人目につかず咲いている。いかにも奥ゆかしいなあ) |