牡丹園に白秋を訪う
  須賀川に来た以上、国の指定名勝・牡丹園を見逃す訳にはいかない。北原白秋歌碑もあるので尚更であった。バスの時刻の関係で、中心街の紀行を中断し、須賀川牡丹園行きのバスを拾った。
  須賀川牡丹園は明治3年に薬草園として開園し、その後、鑑賞用牡丹も植えて規模を拡大した。昭和になり、国の名勝に指定されて一気に全国にその名を広めた。三代目の園主が柳沼源太郎。源太郎は「破籠子」の号を持ち、牡丹園を経営しながら、俳人としても名を成した。
  入場券発売所には人の気配なし。300円(牡丹の最盛期は800円)の入園料を支払わずに勝手に入場する。静まり返る園内に、白秋歌碑「須賀川の牡丹の木のめでたきを 炉にくべよちふ雪ふる夜半に」を探す。
  正門の左手先に黒御影石の立派な碑が座る。残念ながら碑を飾る牡丹は終わっていた。園主・柳沼源太郎が、眼を悪くして苦しむ晩年の白秋に、お見舞いとして栽培した牡丹を贈った。白秋は感激し、花が枯れるまで長く愛で、枯枝を暖炉で燃やしたとの逸話が残る。歌はその時の詠で、御礼に柳沼源太郎に贈られたもの。当園にとっては記念すべき作品なので歌碑として一等地に残された。この逸話を知って碑の前に立つと、二人の交友が碑面に輝いて見えた。
  5月の中旬に最盛期を過ぎた園内では、数人の作業員が花の後始末に精を出していた。これでは入場券発売所が無人の筈だ。ほんの少しだけ残された大輪を拾いながら、原石鼎句碑「日をつつむ雲に光や牡丹園」、柳沼破籠子句碑「北斗祭る かむなき心牡丹焚く」など園内に散らばる、歌句碑を巡った。
  池には一面に蓮の花、バラ庭園は花盛り・・・と牡丹に代わってもてなしてくれる花々を訪ね歩き回り、ベンチでサンドイッチを頬張った。無料で入園した罰則なのだろうか、帰途のバスが定刻12:31を過ぎてもやって来ない。バスは一日4本で、次のバスは2時間後。15分待ってバスを諦め、タクシーを呼んだ。予定の時刻を相当オーバーしているので、奮発して、タクシーで残されたいしぶみを廻ることにした。
         
                   (写真:須賀川牡丹園:同左・白秋歌碑:同左・原石鼎句碑)

再び芭蕉の足跡を追う
  芭蕉が江戸を発ち(旧暦3月27日、新暦5月16日)、日光を廻り、広大な那須野ヶ原で難渋し、漸く、みちのくの玄関口の白河の関を越えて辿り着いたのが、ここ須賀川の相楽等窮の屋敷であった(旧暦4月22日、新暦6月9日)。みちのくで最初に出逢った知人だったし、ここを離れれば仙台に住む大淀三千風に逢うまで知人は居ない。長旅の疲れもあり、等窮の歓待を良いことに8日間の長い逗留となった。句会を催したり、近くを散策したりして、疲れを癒し、福島・仙台・平泉への長旅に備えた。
  現在はNTT局(中継所)となっている等窮の屋敷跡には案内標識が残るだけだが、裏手に廻ると、「奥の細道」に登場する可伸庵()が立派に整備されていた。そこには植え継がれてきた四代目の栗の木、芭蕉句碑「世の人のみつけぬ花や軒の栗」(文政08(1825)建立)、「奥の細道」の一節を刻んだ文学碑「軒の栗」などがぎっしりと立ち並んでいた。数枚の写真を撮り、若葉を広げる栗の木を見上げた。栗の花が曇天に浮かんでいた。狭いながら「奥の細道」に残された聖地の一つであった。
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