魚屋のお兄さんは「お好きな物を言って下さい。二階の食堂で調理して食べられます」と観光客を呼び込むが、原色の魚には食欲が湧かず。肉屋の店頭にはサングラスをかけた豚さんの顔が居て、一層、食欲が無くなった。が、何か腹に収めておかなくては、と二階に登って無難に「マグロ丼」「海鮮丼」を注文した。海鮮の名に相応しく丼用の新鮮な「いくら」が下の店から「丼」に入れて運ばれて来た。
    
          (写真:ハブの居る“瓦屋節歌碑:与儀公園・寒緋桜:同・山之口詩碑)
  与儀公園の寒緋桜と山之口貘詩碑が旅の目的の一つ。市民会館脇の与儀公園はお花見で大賑わい。寒緋桜は満開で川面を彩り、カメラの砲列が日本で一番早い桜に迫っていた。
  桜より詩碑が先だと広い園地を探しまわる。中々見つからないので清掃係りの人に聞く。「貘さんですか。寒緋桜の並ぶ小川の向う、市民会館の傍にあります」と教えてくれた。「貘さん」と親しげに呼ぶ、沖縄近代詩人の筆頭・山之口貘が当地では有名人であることに感激して教えられた道を辿った。
詩碑はコバテイシの大木の根元で、花見客を避けて、静に座っていた。簡素な根府川石の碑面には詩「座布団」が細い自筆で流れていた。「土の上には床がある/床の上には畳がある/畳の上にあるのが座布団でその上にあるのが楽といふ/楽の上にはなんにもないのであらうか/どうぞおしきなさいとすゝめられて/楽に坐ったさびしさよ/土の世界をはるかにみおろしてゐるやうに/住み馴れぬ世界がさびしいよ」と貧乏詩人の選んだ詩句の一語一語が輝いて見えた。
  「食えない詩人の現実と差別によって食えない沖縄という二つの現実に挟まれて生きた(野間宏「詩人の肖像」)山之口貘をほんの少しなぞっただけで終わった旅であったが、「楽に座るさびしさ」の詩句はこれからの日々への土産に・・・と有難くカバンに仕舞った。
山之口 貘(やまのくち ばく、1903年・明治36年- 1963年・昭和38年)は、沖縄県那覇区(那覇市)東町大門前出身の詩人。薩摩国口之島から、琉球王国へ移住した帰化人の子孫。197編の詩を書き4冊の詩集を出した。大正10年前後に父が事業に失敗し、その後、一家は離散する。貘さんは、上京して、貧乏生活が始まる。毎日の食料にも困るような生活を生涯送ることになる。そんな貘さんであったが、一生を詩作にささげた。一編の詩を書くのに200枚もの原稿用紙を使ったという。つねに、出来あがった詩の推敲を徹底して行なったためだ。生涯で書き上げた詩が200編に届かない寡作。自然を題材にした詩は少なく、対象は常に人間であった。
  与儀公園で車を拾い、首里城のある丘に登った。さすがに、観光地らしくバスでやって来た団体さんが引きも切らずに登って行く。団体さんの後尾でガイドさんの説明を無料で聞きながら、守礼門、歓会門、瑞泉門を潜り、奉神門から唐風の正殿に入った。異国風の宮殿内は混雑していたので、足早に通り抜け、系図座と称する建物の前で琉球舞踊を鑑賞した。来島してこれで三度目。「四つ竹」が一番見応えがあった。花笠をかぶり、赤い帯(ウシンチィー)を締め、紅型で染め上げた赤と黄色の、艶やかな民俗衣装が宮殿に映える。今回は観光客用ではなく本式の琉球舞踊で、背景の青い空と赤い琉球瓦、小さく愛嬌をふりまくシーサー・・・と舞台装置も揃っていた。
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