餌を蒔くと巨大な“ふえふき鯛”が群をなして飛び込んでくる。跳ねる、くねる、食いちぎる・・・と乱舞する魚群に息を呑む。次々現れる光景を船底越しに見つめていると“船酔い”がやって来た。そのため折角の説明が全部記憶から消えてしまった。
  陸地に上がると、船酔いは嘘のように消えた。青色の展覧会の絵を見ながら、残波岬の先端まで20分ほど歩く。先端には50mの断崖絶壁が続く。その上では大物を狙う釣人が気長に竿の動きを待っていた。岬の岩場で琉球歌、「特牛節」と「古堅ノ口節」の二基の歌碑を無事に発見。高度恐怖症なので、灯台に昇り東シナ海の遥か彼方に浮かぶ慶良間列島を見る勇気はなく、ホテルに引き揚げた。
  昨日から一日半、南国のリゾートを堪能し、これが観光客を魅了する沖縄なのか・・・との思いを抱いて、リムジンバスで那覇市に向った。
琉球歌:18世紀前半、尚敬王時代は沖縄文化の黄金時代といわれ、士族だけでなく 農村の娘たちも琉歌をつくるのが一般的であった。その琉球歌を代表する女流歌人が恩納ナベ(ウンナナビ―)。恩納村に生まれた彼女の琉球歌は沖縄各地に歌碑として残る。万座毛の歌碑は「なみぬくいんとまり かじぬくいんとまり すいてぃんがなし みうんちうがま」と発音するそうである。歌は活字では面白くないが、バスガイドが車中で紹介してくれた様に、沖縄語の独特の発音で聞くと、哀調に包まれて心地よい。

那覇のいしぶみを訪ねる
  那覇市泊港でバスを捨てると、初乗り500円のタクシーが近寄って来たので、沖縄の繁華街“国際通り”の那覇市観光案内所に案内してもらう。他でもない、散々調べた国際通り山形屋裏手の琉球歌・「瓦屋節」の歌碑の所在を教えてもらうためであった。
  案内嬢に尋ねるが要領を得ない。居合わせた市の職員・中本さんが「あのビルの裏手にあります」とJALシティホテルを指さす。そうか文献にあった「山形屋」はホテルに変わっているのかと納得。「行かれますか。とても、口では説明できない所ですから、ご案内しましょう」と手にしていた三線(さんしん:沖縄県を代表する楽器)を片付けた。
  国際通りから一筋北側の「ニューパラダイス通り」へ。名前は立派で昔は賑わったそうだが、今は、閑散とした住宅街。100mほど進んで細い路地を左折すると、突然、ジャングルが現れた。繁華街のど真ん中にジャングル?・・・と目を丸くする。「緑が丘」の標石も墓地らしき構築物も半ば旺盛な草に埋もれている。道らしきものも見当たらない。よほど勝手を知った人でない足を踏み込めない登りを中本さんは小枝で地面を叩きながら先導する。「ハブに気を付けて下さい」と恐ろしいお告げが頭上から落ちてくる。地元の人の後について行けば安心だと、必死で、中本さんの後を追う。頭上は熱帯雨林が覆い、日差しを遮るし、地上には露出した大木の根が行く手を遮る。跨ぐ、潜る、掻き分ける・・・と難行の末に、漸く、丘の上の空地に着く。
  「あれがお探しの琉球歌碑です」と野犬を追い払った中本さんが指さす。ハブは大丈夫かと恐る恐る近寄る。確かに碑面には「瓦屋つじのぼて 真南向かて見りば 島ぬらぬ見ゆる里やみらん」と彫られていて、副碑(琉球ノ陶業発展ノ陰ニマツワル物語ニ瓦屋節ノ悲歌ガアル。・・・碑ハ史実ト伝説ヲ秘メタママ黙シテ語ラズモ、物語ニ因縁深イ照川原ニ記念ノ碑を建ツ)と「旧地名:牧志村照川原」の標柱が建っていた。来る道の凄まじさに比べ歌碑はよく保存されていた。「よくぞここまで」と感動は深かった。
  帰り路で「ハブの残した脱け殻」を教えてもらい、無事に生還したことを喜んだ。墳墓の地であることが開発を遅らせたようで、何れは公園にでも仕立て直そうと考えていると中本さんは珍客に説明してくれた。それにしても沖縄一の繁華街の喧騒が聞こえる場所にジャングルが残ることに驚きを隠せぬまま、熱帯雨林の別世界、親切な沖縄人と別れた。数多いいしぶみ紀行の経験の中でも、雷雨の中で必死のヒッチハイクした美ヶ原紀行に次ぐ、貴重な体験であった。
  観光客で賑わう“むつみ橋”の交差点の混雑を渡り、「市場通り」の細道に入る。道の両側は土産物を中心にした小さな店が立ち並び、観光客が溢れる。「牧志公設市場」を覗く。乾物屋、肉屋、魚屋が色彩豊かな沖縄の産物を積み上げ、買物客で大賑わい。
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