玉泉洞から太平洋側の糸満市摩文仁までは7kmほど。いよいよ、沖縄地上戦の最後の地だ。車窓に映る砂糖黍畑が惨劇を思い起こさせる。
  摩文仁の平和祈念公園は、まるでスペインに来たように、真っ青な海の上に浮かんでいた。オレンジ色の屋根に白い壁の祈念館は、リゾートホテルの様相で、微塵も暗さがなかったことに救われた。海に向かって緩やかに下る園地には黒御影石の墓標が整然と立ち並ぶ“平和の礎(へいわのいしじ)”が扇状に開けていた。
  私流の弔意は、多くの慰霊塔に添えられた、いしぶみを訪ねることで表そうと決めて来たので、県別慰霊塔のある丘に向かった。先ずは、沖縄県「島守の塔」に手を合わせ、山口誓子句碑「島の果世の果繁るこの丘が」など数基のいしぶみを見る。丘を登りながら、道の両側に立ち並ぶ慰霊塔の中、兵庫県・徳島県・熊本県(安永蕗子「花きよき列島まもり逝きたりと嘆けば炎ゆる緋の仏桑華」)・・と各県の慰霊塔に手を合わせた。
  夏を思わせる太陽が降り注ぐ。枯枝ばかりのデイゴの木。青森県の慰霊塔から見下ろした摩文仁の海岸は、もう、凄惨な最後の日々を波が遥か沖合に持ち去って、光り輝くサンゴ礁を洗う白い波だけが、あの日々と変わることなく、打ち寄せていた。眼下に立ち並ぶ墓標・平和の礎がなければ、スペインの海岸に来ている雰囲気なのに、「バンザイ」を叫びながら身を投げ出した人々への思い、更に、この海から遥か南の海や島々に散った人々への思いが、日本へ引き戻した。
  「牛島司令官が自決した黎明の塔が先にあります」「こちらが資料館です。ご覧になりますか」との前田さんのお勧めであったが、訪ねたいしぶみに刻まれた詩句で十分だった。広島の平和公園同様、戦争を知らない修学旅行の生徒たちが、はしゃぐのを我慢して静かに、ガイドの説明に聞き入っている姿が印象的に残った。あの戦争から、もう、半世紀以上の時が過ぎた。戦跡も静に古希を迎えようとしていた。
  ひめゆりの塔までの10分間、前田さんは、もう何度も繰り返している牛島司令官自決のシーンを、まるで我が目で見たかのように、悲痛な面持ちで物語った。それが、否応なく、女学生達の悲惨な最期の地へのイントロとなって、車内の温度を下げ、身が引き締まった。
  ひめゆりの塔の入口には献花を売る店。大混雑の人波を掻き分け、花屋の横から塔に近づくと小さな洞窟が口を開けていた。献花台には花の山。前田さんが教えてくれた場所から、僅かに、深い洞窟の一部が見えた。「私は当時7歳。防空壕で恐怖に震えていました」と語る前田さんの顔は沈痛であった。ひめゆり部隊の引率教師の一人、仲宗根政善の歌碑「いはまくら かたくもあらむ やすらかに ねむれとぞいのる まなびのともは」が記念碑をしっかりと守っていた。
  「この地は公的施設ではありません。同胞が私財を投じて造り、運営しています」との説明を聞くに及んで、犠牲者に弔意を表するには記念館も見なければと入館する。洞窟内の模型を見る。病院として使用していただけに、思っていた以上に洞内は広く、頭上から降り注ぐ光が中空を舞っていた。展示品を横目に、お互いの戦争体験を語り合い、幼年時代に立ち返った。駐車場脇に咲いていた「ベンガルヤハズカズラ」の清楚な紫色が少女たちを飾るに一番相応しく思えた。
  「今一つの戦跡を訪れたい。この近くの“琉球の塔”まで願いします」と地図を示す。往時の中央気象台長・和達清夫の句碑「夏草の原に散るべき花もなく」を見たいばかりに、出発前、その地を調べ上げた。前田さんの話では、訪れる人の少ない慰霊塔が糸満市には沢山あるという。この「琉風の塔」も、きっと、その一つであろう。ひめゆりの塔から500mほど県道を進むと、「琉風の塔」の小さな矢印看板。危うく見逃しそうになった。細道に入り、200mほど登った先に黍畑が開けていた。畑横の小山の中腹に、閉じた扇子を立てたような、白い慰霊塔。塔の脇に往時の沖縄気象台で働き、戦没した72名の名前を列記した小さな黒御影石が添えられ、その末尾に博士の句が彫られていた。白い雲が流れる砂糖黍畑、汗ばむ陽気の中で寺島尚彦の世界に出逢った。彼の作詞・作曲でヒットした「さとうきび畑」を風が運んで来た。
                      −p.02−