全てが滅びた後にも、健気に生き残った栗の実に拍手を送った。更に、寒風に耐えている栗に我が身を重ね、栗の下をかさかさと音立てながら歩く。この地を舞台にした打木村治の「天の園」の少年の気分で大地の感触を確かめ、70年近く生き残った幸せに浸る。
             
         丸木美術館前庭供養塔群:取り残された栗:下唐子中央公園・打木文学碑
  空腹を抱えての30分近くの散歩は栗やら椿やら・・・と仰山なお土産をカバンに満たしたが、お腹には入ってこなかった。辿り着いた中央公園の南西の隅「石の庭」に打木村治文学碑を見つけた。園地に大きな青石を座らせ、その南面に彫られた景色でおなかのくちく(いっぱいに)なるような子どもに育てます」の骨太の文字が碑面を飛び跳ねていた。碑の両側をピラカンサスの赤い実とくちなしの低木が、背後を固いつぼみを付けた椿とクロガネモチがしっかりとガードして居た。
  碑の横のベンチ、一等席を独占して、缶ビールを片手にサンドイッチの昼食。何時もなら缶の半分ほどでやってくる酔いは、今日ばかりは、一向にやって来ない。きっと、ピラカンサスの赤い実が先刻の「地獄の焔」を連想させたからだろう。
  運動場の子供達の歓声。遠くに逆さ箒の銀杏の大樹。全てが平和であった。が、上空を横切る旅客機とサイレンを鳴らして走り去った救急車が園地の平和を破った。爆音はB29か・・・、サイレンは空襲警報か・・・と恐ろしかった空襲の記憶が蘇る。おまけに、カラスまで啼いて不吉な予感が襲って来た。缶に残ったビールを慌てて土に帰して昼食を終える。「天の園」の舞台になっている公園横の村の鎮守・唐子神社を覗き、公園中央で天を指さす大銀杏がB29を撃ち落としてくれることを願いながら、唐子体育館前でコミニティ・バスを待った。バスは5分遅れてやって来た。往路同様、乗客は誰も居なかった。

打木村治(うちきむらじ/19041990)は明治37年大阪生。幼くして父の病のため母の実家のある比企郡唐子村(現東松山市下唐子)で過ごした。武蔵野の面影が残る埼玉の自然や風土をこよなく愛し、作品にもよく描いた作家である。昭和3年に早稲田大学卒。同人誌「作家群」を創刊主宰して文筆活動を開始。農民文学、戦後一転して、児童文学に向い、代表作『天の園』(芸術選奨文部大臣賞の児童文学の傑作:全6巻の長編で未読『大地の園』などを残した。



高坂のプロムナードで詩人に出逢う
  終点・高坂駅前の一つ手前、高坂図書館でバスを降りた。西に向かって800m、関越自動車道の陸橋を抜けると「高坂カントリークラブ」を背負って常安寺の石段が見えた。このお寺に金井美恵子の詩碑があるとの情報がなければ訪れることもなかったろう。金井美恵子についても「車椅子の詩人」と呼ばれていること、数冊の詩集の題名しか情報がなかった。が、「詩碑」と聞けば見逃すわけには行かない。100段の石段に疲れた足を乗せる。登りきった山門の先、本堂手前右側に詩碑はひっそりと静まっていた。碑面を辿る「足がなければ 足をつくれ 太陽がなければ 太陽をとれ ものうげに寝そべった蜆 黒い殻を閉じた蜆 泥水を吸う蜆 そんな蜆にはなりたくない 手がなければ 手をつくれ 太陽がなければ 太陽をとれ」 (詩集「半分づつの夫婦」より)と彫られている。碑面から力強い熱気が伝わってくる。「元気をいただきありがとうございました。頑張ってください」と馴染のない詩人に挨拶して、静まった境内を後に、常安寺から高坂駅までの1200mを歩く。紀行の終盤に何時も訪れる充たされた気持で歩く。
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