朱色を選んだのは安井の気持ちだろうか、私なら青、と考えながら眺める。「原爆詩集」の巻末を飾る名詩の全文を資料で辿った。峠三吉の詩より被爆した苦しみの中で幻の花を見た原民喜の絶唱を好むが、今日ばかりは三吉の詩が小さな心を占領した。
  時計を見ると13時。予定した時間を超過しているので、下唐子中央公園までの2km弱を歩き始めた。来る時には、畑と思っていた美術館北側の空地に巨大な「痛恨の碑」。近づくと、ここにも、古びた小さな観音堂。その前の青石には赤ちゃんを抱いた小鳩の絵と「ピカは 人がおとさにゃ おちてこん」と原爆を憎む画家の言葉が彫られていた。その碑を見上げるように五輪搭とお地蔵様。察するに、広島で亡くなった丸木位里の親族の聖なる地か・・と慌てて手を合わせた。 


広島の峠三吉


   朝霞第一中学校の名札を付けた千羽鶴が観音堂内を明るくしていた。眺めていると、鶴は広島の爆心地・中央公園に思いを運んだ。
   毎年、式典の行われる中央公園には夥しい記念碑が散らばっている。15年ほど前、出張で広島に宿を取った時、早朝に12基の文学碑を訪ねた。草野心平(天心の三日月の上に/幻でない母と子の像/これこそ永遠の平和の象徴・・・)、大木惇夫、西條八十・・・と並ぶが、圧巻は峠三吉と原民喜の詩碑で、一番沢山の千羽鶴を集めて居た。
   峠三吉の詩碑は爆風を避けるべく、地面に這いつくばって、その上を千羽鶴が覆い隠していた。代表作品「原爆詩集」序詩「ちちをかえせ/ははをかえせ/としよりをかえせ/こどもをかえせ・・・」は平易な言葉で「ピカ」の恐ろしさを訴えていた。
   川を挟んで原爆ドーム。その傍らで、原民喜の詩碑が原爆を投下したB29を睨んでいた。「遠き日の石に刻み/砂に影おち/崩れ墜つ天地のまなか/一輪の花の幻」は壮絶な詩句で原爆ドームを見ながら読んだ体験は強く心に刻まれた。
               
      (広島中央公園峠三吉詩碑:原爆ドーム横原民喜詩碑:中央公園草野心平詩碑


丸木美術館:1967年開館。人間が人間に対して行った暴力を描いた画家として知られている、丸木位里・丸木俊夫婦による「原爆の図」ほか、位里の母・丸木スマの絵画を常設展示。特に、原子爆弾が投下された広島市の惨状を実体験の元に描いた「原爆の図」は、世界中の人々に原爆の恐ろしさを伝えた。丸木位里(いり)は1901年広島生。川端龍子らから日本画を学ぶ。水墨画に抽象的表現を持ち込み、独自の画風を打ち立て、日本画の旗手として活躍。1995年94歳の生涯を終える。夫人の丸木俊(とし)は1912年北海道生。1941年に位里と結婚し、絵本作家として活躍する一方、位里との共作で「原爆の図」などを書き上げ、2000年永眠。87歳。


武蔵野の打木文学碑を訪ねる

  ひとわたり聖地巡礼を済ませ、人気のない都幾川に沿った農道を歩く。川面を深い藪が隠し、霜枯れた畑が左手に広がる。しばらく歩くと畑は栗林に変わる。青空に手を伸ばした枝先に落ち残った栗の実。「原爆の図」に添えられていた説明の言葉赤ん坊がたった一人で美しい膚のあどけない顔で眠っていました母の胸に守られて生き残ったのだろうか。せめてこの赤ん坊だけでも、むっくり起きて生きていってほしいのです」が落ち残った栗に蘇る。
                   −p.04−