説明を読むまでもなく、心の中に凄まじい爆風が押し寄せて来る。居たたまれなくなって、次の作品へ、またその次へ・・・と足を運ぶ。
  第五部「少年少女」と題する画面に釘付けになる。8曲の屏風に仕立てた横に長い画面の「髪を振り乱し、抱き合う姉と妹の姿」に幼い頃の自分の姿が重なる。1945年7月の大空襲に燃え上がる炎を和歌山市から30km離れた「伊都郡かつらぎ町大谷」の疎開先で震えながら眺めた。「もしも、あの頃広島に住んでいたら・・」と少年・少女の痛ましい姿に己が重なる。画面の少年に比べぬくぬくと生を重ねて来た70年が一瞬にして凍りつく。
         
                      (原爆の図第二部「火」−美術館HPより転載)
  20分ほど二つの部屋を行き来して、再び見ることのない世界を眼に焼きつけ、一階に降る。狭い階段の窓にはステンドグラス。差し込んできた冬日が壁に鮮やかな色彩をまき散らし、パリ・サントチャペルのステンドグラスの様に冷えた体を少し温めてくれた。一階の一室に、位里の母・丸木スマの絵が30点ほど飾られていた。70歳を過ぎて絵筆をとったスマの絵は、天衣無縫の色使いで冷えきった心に優しい。
  「水俣」の絵は一階の一番奥の部屋に「南京大虐殺」「アウシュビッツの図」などと並んで壁一杯を暗くしていた。「原爆の図」に比して迫力は小さかったが見る者を圧倒する力は充分にあった。「一生懸命こちらも頑張りましたよ。精一杯の償いをさせて頂くために頑張りましたよ」と画面に語りかけた。画面の人々と座席は反対側であったが、「水俣」に向き合って過ごした35余年だった。悲劇は被害者だけでなく加害者にも降りかかった。報道されない事件の裏側も垣間見た35余年で、加害者側としての言い分を声高に語れなかった日々が重くのしかかって来て、長くは眺められなかった。あとでゆっくり・・・と許しを得ないで写真を撮った。観音像もさることながら、悲劇の人々が愛した「美しい不知火の海」をほんの少しだけでも画面の片隅に書き込んであれば・・・と考えながら、峠三吉に逢いに外に出た。
 
                        (丸木美術館ステンドグラス:同・「水俣」部分:観音堂)
  重く、暗く、寒々とした展示室から一歩足を踏み出すと冬日でさえも暖かく感じられた。展示室の南側には荒川の支流・都幾川の静かな流れがあった。長閑な武蔵野風景が心を和ませてくれる。川に向かうと、右手に小さな観音堂。「これだな」と呟いて扉を開く。
   一坪程の堂内には、それに似合った、小さな観音様。手を合わせて心を落ち着かせる。長押の上に峠三吉が居た。石碑を予想していたが木製の額だった。高さ50cm、幅120cmの杉の板に法学者・平和運動家安井郁の文字が力強く、全20行に亘る詩「希い−原爆の図に寄せて」の冒頭の2行、最終の2行「この異形のまえに自分を立たせ/この酷烈のまえに自分の歩みを曝させよう/この図のまえに自分の歩みを誓わせ/この歴史のまえに未来を悔あらしめぬよう」が朱色で書き込まれていた。
                       −p.03−