天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家らに四方から攻撃され、三ヶ月の戦いの後、落城したという堅固な城跡で「兵どもが夢の跡」を偲んだ。霜柱が表土を押し上げ霜崩れの状態。折り重なる橡と楓の落葉に足を取られながら、戦国の武将よろしく広い城内を見廻った。敵の気配はなかったので、次は出城の見廻りにと山を降りた。
  車の往来の激しい道を「鉢形駅」を目指してほつほつ歩く。時々、屋並みの隙間から、上州の雪山が顔を覗かせる。芭蕉の句碑がある浄恩寺に、二度も道を間違えて、漸く辿り着いたが、目指す句碑は行方不明でがっかり。寄居町の散歩を終え、丸木美術館を訪ねるため東松山市高坂駅へ向かった。


佐々紅華(さっさ こうか:18861961)東京根岸生れの作曲家。浅草オペレッタ創始者で昭和初期に数々のヒット曲を作曲。昭和7年から自ら設計した「京亭」の建物に居住。建築当初は「虚羽(きょう)亭」と名付けられたが、後、大ヒットした「祇園小唄」にちなんで「京亭」に変わった。


峠三吉に出逢う旅
  「原爆の図」のある東松山市下唐子の丸木美術館は著名な美術館だが交通の便はすこぶる悪い。最寄りの駅は東武東上線「東松山」駅で、そこから西へ5km。歩くには少し遠い。唯一の公共交通機関は「東松山駅⇔高坂駅」を結ぶ市営コミニティ・バスだが、一日に二駅で10本しかない。
  時間表を睨んで高坂駅からの便に乗車した。不便ながら下唐子まで20分も乗って「100円」の大サービス。バスは「丸木美術館北」のバス停で終始たった一人だった乗客を降ろした。バス停から武蔵野の雑木林を抜けると、丸木美術館は都幾川(ときがわ)畔に冬日を浴びていた。取付け道路には二体の丸木位里彫像が遠来の客を出迎える。
           
         (丸木美術館入口位里像:美術館入口:原爆の図−丸木美術館HPより転載)
  観音堂の峠三吉詩碑を・・・と心は逸ったが、先ずは「原爆の図」の大作にお目にかかろうと美術館入口へ。「60歳以上は100円割引の800円です。展示は建物のずっと奥まで続きます。ゆっくりとご覧ください」と今日初めての客を迎えた様子。こちらは最大の目的が気になって「ありがとうございます。ところで、観音堂に峠三吉の詩がありますか」と尋ねる。「都幾川を見下ろす小さな建物が観音堂です。三吉の詩が掲げられています」と聞いてひと安心。「遥々三吉さんを尋ねて来ました。先ずは、絵の方から拝見させていただきます」と扉を開けた。
  二階の展示室には8点の「原爆の図」が照明を落とした大きな二つの部屋に展示されていた。第一室中央の木製ベンチに座って、前後左右の大作を眺める。物凄い迫力で地獄絵が迫ってくる。物音ひとつない、寒々しい空間がピーンと張り詰めて取り巻く。武蔵野の冷気で冷やされた体温が、更に、数度下がった心地で大作に対峙した。原爆の焔が画面に溢れる第二部「火」の前で凍り付く。遠くから眺めていた時は真っ赤な焔に気を取られたが、近づくと、焔に焼かれる人間の一人一人が、力強いデッサンで浮かび上がる。阿鼻叫喚の図でありながら、やがてやって来る静かな眠りをも予感させられるのは、作者の祈りと願いが込められているからだろうか。絵の前には「青白く強い光。爆発、圧迫感、熱風、・・天にも地にも人類がいまだかつて味わったことのない衝撃。次の瞬間に火がついた。めらめらと燃え上がり、広漠たる廃墟の静寂を破って、ごうごうと燃えていったのでした・・・」と作者の言葉が記されていた。
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