いしぶみ紀行・寄居・東松山


玉淀の流れ・秩父寄居町を歩く
  気温5度の朝、まだ明けやらぬ道を駅に急いだ。戸塚から湘南新宿ラインで池袋へ。東武東上線の満員の電車から吐き出されて来た人々の顔は、百年に一度の大不況に立ち向かうべく、きりりと引き締まっていた。
  通勤客を吐きだした電車に乗り込んで、埼玉県寄居町までの70分を過ごす。そこは東京都心から70kmの荒川の中流域、長瀞のすぐ下流に位置し、秩父往還の街道筋の宿場町として栄えた所。街の対岸にはかつて武蔵野の要害・鉢形城があってその城下町でもあった。
  終点の一つ手前、名前の美しい玉淀駅に一人だけ降り立った。秩父山地から発する荒川がその浸食によって数々の奇岩を生み出し、“玉のように美しい水の淀み”があるとて気が逸った。緩やかに坂を下って、荒川河畔の東武鉄橋の脇に出る。ここからは荒川に沿って桜並木の道が続く。
  寄居町・保健所の河畔側で宮沢賢治歌碑が背中に冬日を浴びていた。ここから秩父・長瀞にかけては太古の地層が露出した岩畳が連なる「地球の窓」。日本の近代地質学が産声を上げた地である。鉱物が好物の宮沢賢治は、盛岡高等農林学校の2年生(20歳)だった大正5(1916)年9月、教授らとともに遥々秩父を訪れた。この旅で賢治は約20首の短歌を詠んだが、その内、寄居の風景を詠んだとされる2首が碑面にあった。「毛虫焼くまひるの火立つ これやこの 秩父寄居の ましろき空に」「つくづくと 『粋なもやうの博多帯』 荒川ぎしの 片岩のいろ」。背後は「玉淀」の景勝。河原に “粋な模様の博多帯”を見ることが出来るのかと目を凝らした。青く澄んだ水は美しく、到底、荒川下流の水と同じとは思えなかった。これで賢治の秩父紀行の歌碑は熊谷市の一基・長瀞町の二基を加えて、四基全部の探訪を済ませた。満足して桜並木を玉淀に視線を振りながら上流へ歩く。

(宮沢賢治歌碑:玉淀:佐々紅華曲碑:田山花袋詩碑)(拡大写真は巻末のアルバムで
  800m上流の河畔に割烹旅館・料亭「京亭」の小さいながらお洒落な看板。良く手入れされた植込のアプローチの先に風雅な玄関が客を待っている。食通の池波正太郎が「よい匂いのする一夜」で紹介している「鮎料理」で有名な老舗旅館。訪ねたのはここが「祇園小唄」(月はおぼろに東山・・・)や「君恋し」(宵闇せまれば悩みはてなし・・・)の作曲家佐々紅華の別荘跡で、門前の一角に佐々作曲の「寄居小唄」(色はうすべに玉淀桜霞む日ごとの水かがみまわる日傘にほろほろとさてもいとしい花が散る)があるからであった。美しい青石に黒御影石を嵌め込んだ碑面を独り占めする贅沢を味わった。
  鉢形城址に渡る青い橋が澄み切った冬空の青を受け止めていた。期待に違わずこの正喜橋からの玉淀は素晴らしかったが、惜しむらくは、奇岩の規模が小さいことであった。
  橋を渡りきった所が城址入口で、逆茂木の柵が如何にも堅固な山城らしく、敵を防いでいた。盛を過ぎた椿の並木に沿って坂を登ると本丸跡の入口。重厚な落葉を踏んで田山花袋の漢詩碑を探す。詩碑は断崖の天辺から眼下の玉淀を見下ろしていた。左手に秩父の山々、右手、遥か彼方、雪を戴く上越国境を臨む風景は碑面の漢詩「襟帯山河好 雄視関八州 古城跡空在 一水尚東流」(武者小路実篤揮毫)の通りであった。
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