車に戻り、志賀直哉の滞在した蓮華院跡、散歩場所の阿弥陀堂を目指したが、大山周遊道路からの道は苔と雑木林に覆われた石段の道で、車を停める場所も見つからないまま、やり過ごすより他なかった。
  尾道・城崎・奈良・安孫子・戸倉山田・・・と「暗夜行路」を中心に志賀直哉の足跡を辿った「私の暗夜行路」も終わりに近づいた。旅の終章を彩る「茜色の坂」を見つけるために先を急いだ。
     
      (大山寺・志賀直哉文学碑:大山寺本堂:大山寺付近から大山中腹を臨む)
(*1)暗夜行路は作者唯一の長編小説。16年の長い歳月をかけて完成した自伝風の作品。「暗夜行路は外的な事件の発展よりも事件によって主人公の気持が動く、その気持のなかの発展を書いた」と「創作余談」に志賀は書く。大山訪問を前に拾い読みしたあらすじを紹介する。「主人公・時任謙作は、祖父の妾・お栄と暮らしながら作家を目指す。父の資産を譲り受けたが執筆活動をするわけでなく吉原に入り浸り放蕩生活。そこから脱出しようと、尾道で暮し始めたが、自分が祖父と母との間に生れた不義の子であることをと知りショックを受ける。東京に戻った謙作は、京都で知り合った直子と結婚。天津に移り住んだお栄を迎えに行く。が、その留守中直子が従兄弟と過ちを犯す。ある時、汽車にとび乗ろうとする直子を謙作は衝動的にホームへ突き飛ばす。謙作は心の奥底に眠っていた憎悪と、自らの非道な振る舞いを恥じ、伯耆大山で隠遁生活を決意。大山頂上を目指すが途中で腹痛を起こし野営。自然の前での人間の無力さを知る。登山後、重病におちいり、九死に一生を得る。妻直子が看病に来て、妻への憎悪が薄らいでいく」。生きている以上避けて通れない苦悩とそこからの再生を描いた傑作と評されている。
(*2)「中の海の彼方から海へ突出した連山の頂きが色づくと、美保の関の白い灯台も陽を受け、はっきりと浮び出した。間もなく、中の海の大根島にも陽が当たり、それが赤魚覃−あかえい−の伏せたように平たく、大きく見えた。村々の電燈は消え、その代わりに白い烟が所々に見え始めた。然し麓の村は未だ山の陰で、遠い所より却って暗く、沈んでいた。謙作は不図、今見ている景色に、自分のいるこの大山がはっきりと影を映している事に気がついた。影の輪郭が中の海から陸へ上がって来ると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気付いたが、それは停止する事なく、恰度地引網のように手繰られて来た。地を嘗めて過ぎる雲の影にも似ていた。中国一の高山で、輪郭に張切った強い線を持つこの山の影を、その儘、平地に眺められるのを希有の事とし、それから謙作は或る感動を受けた」
(*3)「疲れ切ってはいるが、それが不思議な陶酔感となって彼に感じられた。彼は自分の精神も肉体も、今、此大きな自然の中に溶込んで行くのを感じた。その自然というのは芥子粒程に小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のやうな眼に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く、言葉に表現できない程の快さであった」


  大山高原で紅葉に酔う


  山陰の最高峰、・大山は見る角度によって、会津磐梯山同様に、全くその姿を変えると言う。島根県・米子市、安来市からの景観はなだらかなすそ野を形成し、柔らかく美しく、富士山に似ていることから伯耆富士の名を持つ。一方、江府町、日野町あたりから眺める大山は激しい崩壊で険しい山ひだを作り、無数のガレ場や沢を形成し、ダイナミックな南壁の下は、針葉樹、ブナ林などの森が広がる。「鍵掛峠からの紅葉の景観は山陰随一」と案内されていたので、旅の初めから、「茜色の坂」は其処だと期待が高鳴っていた。
  大山寺から大山周回道路を走る。秋色に輝くブナのトンネルを潜り見事な化粧に声を挙げ、一ノ沢、二ノ沢、三ノ沢と続くガレ場では大山を流れ落ちる白い川床の異様な光景にまた声を挙げ、厳しいアップダウンと九十九折を繰り返しながら車を進めた。
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