いしぶみ紀行・山陰(後篇)−2008.11−


  いざ大山・「暗夜行路」の舞台へ


  鳥取県の何処からでもその雄姿が臨める伯耆大山訪問は、学生時代に志賀直哉「暗夜行路」(*1)を読みふけって以来、長い間の憧れであった。この歳では1800mの頂上を目指すことは叶わないとしても、せめて中腹の大山寺までは、せめて匂いだけでもと思っていた。
  神話の里・白兎海岸から国道・9号線を西へ。赤崎で国道を捨て、「赤崎・大山線」の登りに取り掛かる。古の大山詣での参道も今は立派な県道となってお山に向かって伸びる。途中の小さな峠・報恩峠で紅葉の桜並木に出逢う。1kmほど続く桜葉の下には「文芸の小径」が延び、地元の人々の、句・歌碑が50基も立ち並ぶ。いしぶみの行列なら通り過ぎる訳には行かないので一休み。
  更に、高度を上げる。大山の前山を形成する船上山(標高615m)まで登ると、「一息峠」の絶景がお出迎え。またまた、寄り道して車を停め、展望台によじ登る。海側は、遠く松江、宍道湖、中海、美保の関、米子の町から、足下の紅葉まで、その広大な風景に息を呑む。時任謙作が、大山の高見から見た、夜明けの眺望はこんな風景(*2)だったのか・・と見入る。山側は錦の絨毯を広げ、これまた、息を呑む。「一息峠」とは格好のネーミングで長い登りをこなしてきた、小さなエンジンはしばしの休息を取った。
  一息峠の先、大山スキー場手前で、「この先通行禁止」の看板が進行を阻んだ。「大山寺⇒」に従って、一旦、下りの迂回路に入る。時々、現れる「大山寺⇒」の看板だけが頼りの、不安なドライブを続ける。長い紅葉のトンネルの先に、突然、大山駐車場の賑わいが顔を出し、迷路は終わった。駐車場には何処から湧いて来たのか車の行列。大山寺を目指して、蟻のごとく急坂に取り付いていた。
  寺の宿坊が立ち並ぶ中、清水庵の植込の中に隠れていた種田山頭火句碑(へうへうとして水を味ふ)、山楽荘の杉の大木の下で待ち構えていた高浜虚子句碑(秋風の急に寒しや分の茶屋)・・・と、何れも、やっとの思いで辿り着いた客の気分を代弁する碑文で、存分に味わった。胸突き八丁の参道の先を見上げると、古色の山門が息を切らす参詣者を見下ろしていた。
  目指す志賀直哉文学碑は山門直下で左折して大山神社への参道の途中にあると聞いた。石畳の登りを辿ると、右手の上に「志賀直哉 暗夜行路 ゆかりの地」と太く彫られた文学碑が顔を出した。「これだ!」と積年の思いがどっと押し寄せる。その勢いを借りて、一段高い空間によじ登り、碑陰を確かめた。杉木立から洩れて来る弱い光で「昭和62年建立 大山町」の文字を判読。「大正3年7月当地宿坊蓮華院に滞在 「暗夜行路」の終章はこの時の体験をもとに書かれている」と解説された副碑が寄り添っていた。
  この山道を辿り大山の頂上を目指し、朝焼けに出会い、時任謙作は長年の葛藤から解き放たれる時を迎えたのか(*3)・・・と石畳を進む。阿波野青畝句碑(炎々と大山開く夜なりけり)を石橋・無明橋で見つけ、その先で石畳の参道から逸れ、藪を漕いで、大山寺の本堂裏手に辿り着いた。
  持参した資料を覗く。「山岳信仰に帰依する修験道の修行道場として栄えた大山寺。平安時代以降、山岳信仰の仏教化が進むに連れて寺院が増え、最盛期には100を超える寺院を持って、比叡山、吉野山、高野山に劣らないほどの隆盛を極めた」とある。昭和26年に再建の本堂は古色をおび、大山の自然の厳しさを感じさせた。横の鐘楼から響く鐘の音。志賀直哉が聞いた鐘の音なのかと、またまた、「暗夜行路」が溢れるひと時であった。
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