車を進め、今は廃墟となった砂丘パレスの玄関前で、高浜虚子句碑(秋風や浜坂砂丘少し行く)、道路脇の松林の中で枝野登代秋歌碑(砂丘をいくつ越えしが波音の まぢかにきこえて海まだ見えず)など調べ、今が盛りと報じられている「ラッキョウの花」に心を残して、砂丘を後にした。
   
         (鳥取砂丘・有島武郎歌碑:人の気配を消した鳥取砂丘)


  神話の里(白兎海岸)と万葉の里(国府)


  当地に生まれた自由律俳人・尾崎放哉の生誕地と句碑を見たかったが、諦めて、郊外の国府に急いだ。鳥取市街地を抜け、5kmほど走ると、奈良・明日香村に似た風景が眼に飛び込んできた。周囲を田園に囲まれた万葉歴史館に車を停める。
  大伴家持を中心とした万葉集の館、当地の民俗資料展示館などがある近代的な資料館だ。超モダンな建物が、田園の中に孤立する風景は異様とも見えた。その豪華さにあっけに取られながら入館。中庭は万葉集関係の草花と池で構成され、丁寧に整備されていた。中央に犬養孝先生揮毫の大伴家持歌碑「新しき年の初め初春の 今日降る雪のいやけし吉事(20−4516)」が自然石に刻まれ美しい。真っ赤に燃え立つどうだん躑躅と緑の草木が映える見事な歌碑である。寄り添うように「家持祭」の特選となった歌を載せた歌碑が20基ほど散らばっていた。あまりの多さに仰天、丹念に調べる時間もなく引き揚げた。
  近くの袋川には「水辺の楽校」と称する歌碑群がある。河川敷を辿ると大伴家持を筆頭に、藤原行平、藤原定家などの歌碑、総数10基が800mほどの間に散らばっていた。何れも、小ぶりながら、美しい御影石に刻まれた歌碑を順に辿るのに相当の時間を費やした。
  神話の里・因幡に、大化改新(645)により因幡国府が置かれ、天平宝字2年(758)6月、藤原仲麻呂が勢力を握った中央から、大伴家持が因幡守に左遷されてきた。41歳だった。現在では一日の行程を、一週間以上もかかって赴任してきた家持は、翌、天平宝字3年正月の祝宴で万葉集20巻の巻末を飾る歌(新しき年の初め初春の 今日降る雪のいやけし吉事(20−4516)を詠み、万葉集編纂の偉業を成し遂げた。その歌碑が旧岩美郡国府町役場前を西に入った「庁」という集落(国府跡)の一角、巨大な椋とたもの木立の中に建っている。傍らに佐々木信綱の家持讃歌(ふる雪のいやしげよごとここにして うたひあげけむ言ほぎの歌)と作者未詳の万葉歌碑(藤浪の散らまく惜しみほととぎす 今木の丘を鳴きて越ゆなり10・1944)が家持歌碑を守っていた。大正11年建立の家持歌碑は碑面が相当傷んでいたし、木漏れ日の光線では万葉仮名を読み取ることは困難を伴った。
  この一角を訪れる人のための駐車場が設えてあり、そこには、在原業平の兄・在原行平(855年因幡の国司に任ぜられ、4年間当地に滞在)の百人一首歌碑(たちわかれいなばの山の峰におふるまつとしきかば今帰りこむ)が、歌に詠まれている稲葉山を背負って、建っていた。高さ1.5m、幅3mの巨石だが、周囲の黄緑の田園と稲葉山の紅葉に囲まれ、惚れ惚れする風景を作っていた。
  この地には、東に甑山、西に面影山、南に今木山が位置し、国庁の正殿からは、あたかも藤原宮から大和三山が眺められたように、因幡三山と名付けられた山々を望むことができたと言う。左遷された家持が寂寥たる思いで因幡三山を眺め、大和を偲んでいる姿を想像できる雰囲気が辺りに漂っていた。明日香村で恩師が教えてくれた「香具山は畝傍を愛しと耳成と相争ひきに神代より・・(1−13)」が突然脳裏に浮かんで来た。
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