兵庫・鳥取県境に向かって七坂八坂の難所を越える。名だたる九十九折りだけに、途中、「魚見台小公園」「汐吹岬小公園」と、二度、休憩を取る。公園では前田翆渓歌碑「風ふけば 松の枝鳴る 枝なれば 明石を思う 妹と子を思ふ(辞世)」など4基の句・歌碑が旅人を慰めてくれた。 県境を越えて、10km山手に分け入り、鳥取が生んだ童謡作曲家・田村虎蔵(「はなさがじじい」、「だいこくさま」など作曲)のふるさとで記念碑を訪ね、鳥取のホテルに着いた時はすっかり暗くなっていた。 童謡のふるさとを散歩し、朝の砂丘に足跡を残す 鳥取は日本の童謡史を飾る名作曲家を二人も生み出した。一人は、田村虎蔵であり、今一人は、「紅葉」や「ふるさと」の岡野貞一である。そんな風土が「童謡百選」を選ばせ、その地に歌碑やモニュメントを建て、「わらべ館」を開設して、童謡の普及に取り組んでいる。高知県安芸市、兵庫県竜野市、長野県長野市などと並ぶ童謡の町として童謡愛好家に知られている。 夜明けを待ちきれずに、童謡碑の探訪に飛び出し、岡野貞一の旧居跡近くや鳥取城址・久松公園を散歩。公園入口では真っ赤に紅葉した桜の並木が、目覚めの輝きを放っていた。巨大な岡野貞一顕彰記念碑が城址を見上げる。碑面の五線譜には「♪うさぎおいしかのやま こぶなつりしかのかわ♪」と唱歌「ふるさと」の一節が朝の光を受けていた。 早々に朝食を済ませて鳥取砂丘に走る。東西16km、南北2kmの日本最大の砂丘は簡素な住宅街を抜けるといきなり顔をだした。その一角に有島武郎(浜坂の遠き砂丘のなかにして わびしき我を見いでけるかも)、与謝野晶子(砂丘踏みさびしき夢にあづかれる われと覚えて涙流るる)の歌を併刻した巨大な歌碑が浜風に吹かれていた。少しは砂丘に沿って走ってからと思っていたので突然の出現に驚く。碑の前には「武郎・晶子 侘涙の地」の記念碑。「侘涙」とはどんな涙かといぶかりながら歌碑に取り付いた。 道は砂丘に沿って東に延びていた。しばらく走ると、駐車場の傍に枝振りの見事な松と有島武郎歌碑(浜坂の遠き砂丘のなかにしてさびしき我を見いでけるかも)が現れた。有島歌碑としてはこちらが先輩だ。武郎の妹・愛子の流れるような文字が細長い碑面にあった。よく見ると、先の歌碑とは碑文が微妙に違う。先の歌碑も城崎の歌碑も「わびしき我」だが、こちらは「さびしき我」だ。果たして、どちらが正解なのか首を傾げた。城崎の歌碑が有島の自筆だし、有島武郎全集の書簡にも「わびしき我」と書かれているから「わびしき我」が正解か。前述の通り、有島は山陰の旅を終えた大正12年4月から2カ月後、軽井沢で情死した。終焉の地を二度も訪れ、その死の秘密を推し量った筆者としては、砂丘の西の外れなので訪れる人も少ない此処のイメージからも「さびしき」の方を好むが、天国の有島に確かめる術はない。 海岸に向かって砂丘に踏み込んだ。遥か向うの白波と松林に挟まれた広大な砂浜は茫々して果てしらず。与謝野晶子の「砂丘とは浮べるものにあらずして 踏めば鳴るかな寂しき音に」や島崎藤村の「さびしい眺めにも沙漠の中の緑土のやうに松林の見られるところもあって、炎天に高く舞ひあがる一羽の鳶が・・・(山陰土産)」など先人の印象、学生時代に訪れた遠い記憶などを辿りながら歩く。昨夜の小雨に濡れたらしい砂は予想外に硬く締り、無機質の荒涼たる地面に生きる、ささやかな生命の息吹に驚く。遠く、昔よじ登った“馬の背“の砂壁に取りついた蟻のような見物客に、あらためて、砂丘の広さを感じる。旧作の詩(最終ページ掲載)が浮かんで来た。それに使った美しい風紋を見たいと探していると、ふと、金沢・内灘砂丘で見た井上靖の碑文「日本海美し 内灘の砂丘も美し 波の音聞きて生きる人の心美し」が砂の中から顔を出した。そうだ、風紋は”波の音聞きて生きる心美しい人“しか見ることが出来ないものだ、と諦めた。 p.03へ −p.04− p.05へ |