暗夜行路の舞台・応挙寺のある香住町を走り抜け、峠を越えると、行く手に有名な餘部の鉄橋が空中に浮かぶ。鉄橋は明治45年開通。長さ310m、高さ42mの空中橋として山陰名所。老朽化が進み、現在、隣接して新橋を建設中。橋の下に停車して首が痛くなるまで仰ぐ。そこから浜坂の町は近かった。
  岸田川が日本海に注ぐ小さな入江に「松葉蟹」の漁港・浜坂の町が沈んでいた。この静かな漁師の町がよびよせたのは三つの文学碑。
  先ず町の温泉場「ユトーピア浜坂」に車を停めた。前庭に田中冬二詩碑がちょこんと座る。城崎の詩碑よりこちらが数段素晴らしかった。どうだん躑躅をお供にして黒御影石に額を作った碑面には詩「冬・但馬浜坂」と題して、「新月が出てゐた/暗い町の辻に/日本海の怒涛がきこえた/針問屋は重い戸をおろしてゐた」が刻まれていた。後ろに廻ると「・・・この詩は、若い銀行員時代、山陰本線で通過や下車して親しんだ浜坂の情景を詠んだもの。・・・冬二にとって浜坂は、母の地であり、詩のふるさと。この碑文は、詩的結晶度も高く、冬二の代表作の一篇・・・」と懇切な解説が記されていた。冬二の詩を愛する筆者には待ちに待った出逢いであった。その所為か、冬二詩碑と対面する様に建っていた、坂村真民詩碑(念ずれば花開く)がぴたっと心にはまった。
  二つ目の碑は、当地の出身で「東の啄木、西の翆渓」と称された前田純孝(号:翆渓)歌碑。数多くの悲しくも秀れた短歌を紡ぎ、明治44年、31歳の短い生涯を閉じた歌人だ。浜坂は「短歌賞」を設け前田純考を顕彰しているので、町中には受賞作の歌碑が立ち並ぶ。先人顕彰記念館の駐車場には、地元の詩人小山龍太郎詩碑(詩「川下大祭」刻)と並んで、前田翆渓歌碑「磁石の針ふり乱さんは無益なり 磁石はつひに北をさす針」が待ち受けていた。
  最後に、新田次郎文学碑を探した。海岸に1kmの長さで横たわる見事な松林を巡っている途中、前田純考短歌賞の選者として毎年当地を訪れている佐々木幸綱の歌碑風を早み磯に立つ波高けれど 沖にひろがる但馬のブルーに偶然出会ったりしながら、松林の端でようやくご対面となった。
  新田次郎の文学碑は海ではなく山を見つめて立っていた。御影石の碑には「孤高の人」と新田の自筆が骨太に刻まれ、「観音山のいただきには寺があった・・・」と浜坂町の場面が活字体で刻まれていた。遠い昔、風邪で伏せっている時にこの小説読んで勇気をもらった記憶が鮮明に蘇るひと時を過ごした。
  小説のモデル・登山家・加藤文太郎はこの小さな漁師の町に明治38年に生まれた。その名を一般の人が知ることになったのは、中央気象台富士山観測所勤務中の新田次郎が真冬の富士山で「突風が吹きまくる富士山の氷壁をまるで平地でも歩くような速さで歩いていた」加藤に出逢い、後に「不死身の加藤」として小説「孤高の人」に結晶させた小説がベストセラーとなったからだ。常に「単独行」で日本アルプスの名峰登山で名を成した加藤であったが、昭和11年、30歳の若さで遭難死した。
  城山公園には加藤文太郎の顕彰碑や富田砕花詩碑、居組部落の神社には西行歌碑・・・と見たい碑が残されたが、暗くなるまでに鳥取市に着かなければと浜坂の町を離れた。
    
     (空中に浮ぶ餘部鉄橋::浜坂・田中冬二詩碑:浜坂・新田次郎文学碑)
p.02へ                       −p.03−               p.04へ