いしぶみ紀行・山陰(前編)−2008.11−


名湯・城崎温泉でお湯にも入らず碑を訪ねる


  伊丹空港から福知山市へ。百人一首・小式部内侍の歌「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」の舞台・生野は、今も変わらず、遠かった。場所の特定に、平安時代さながらの苦労を重ねて、漸く、生野の里で歌碑に辿り着いた。枯れかけたコスモス、たわわに実をつけた柿の木が秋の深まりを見せて、気持ちの安らぐ風景が山峡に広がっていた。但馬の小京都・出石町で美味しい“皿そば”を戴いて、城崎に入った。駅前の時計は午後1時を指していた。
  城崎温泉駅前の外湯「さとの湯」前に、簡素な島崎藤村文学碑「朝曇りのした空もまだすゞしいうちに、大阪の宿を発つたのは、7月の8日であつた(「山陰土産」冒頭・昭和2年来遊)」が湯けむりを浴びていた。
  駅前から温泉街への道路には土産物屋が立ち並び、客が溢れていた。そこを抜けると大谿(おおたに)川に沿って老舗旅館が軒を並べる。丸いカ−ブの石橋が小さな流れを跨ぐ。川畔ではスケッチを楽しむ人々。志賀直哉の「城の崎にて」の第二話“ねずみの話”(*1)の舞台はこのあたりだろうか・・・と車を進め、温泉街の奥、元湯脇の駐車場に車を停めた。
  城崎を訪れた文学者は平安時代の藤原兼輔から、吉田兼好、飯尾宗祇、上田秋成、向井去来と続き、明治以降は当地を訪れた文学者の名前を列記すれば日本文学史が出来上がる賑わいだ。お手製の文学碑案内図を片手に温泉街に繰りこんだ。
  温泉街を貫くメイン道路の月見橋の袂に芭蕉句碑(雲おりおり人を休むる月見哉)。さすがの芭蕉もこの地には縁がないのでしょんぼり。橋を渡ると「つたや旅館別館」。玄関先では藤井重夫の代表作「佳人」の一節を刻んだ可愛らしい碑が出迎えていた。向い側の「つたや本館」脇には司馬遼太郎が「竜馬が行く」の取材で訪れた時の文章を刻んだ小さな文学碑が客を待つ。隣が、桂小五郎が難を避け、志賀直哉をはじめ数々の文人が投宿した「三木屋」。特に、志賀直哉は大正2年10月18日から11月7日まで、電車にはねられた傷の養生で当館に滞在した。その時の体験が「城崎にて」「暗夜行路」(*2)に反映されている。「城崎にて」の第一話の“蜂の死の話”(*3)の舞台に三木屋が登場するので期待していた。予想に反して、玄関は昔の名残を残していた。直哉の泊まった部屋は今も大切にされていると聞くが、館内を見せてもらう勇気もなく、写真だけで我慢。
  駅前の混雑が嘘のようなメイン道路を進むと外湯「御所湯」(橘千蔭歌碑)が大層な門構えで控える。更にその先には、「御所湯」に劣らぬ豪勢な外湯「一の湯」。その脇で足湯を楽しむ人々が与謝野寛・晶子夫妻の比翼歌碑を隠していた。遠慮がちに歌碑を調べさせてもらい、温泉街の中心・玉橋を渡った。その与謝野夫妻が泊まった宿・「ゆとうや」が橋畔にあった。ここは島崎藤村、有島武郎、吉井勇、松瀬青々ら多くの文学者泊まった宿なので、立派な門を潜って見学させてもらった。よく手入れされた玄関脇の苔の上に松瀬青々句碑(一の湯の上に眺むる花の雨)が静かに居た。中庭には有島武郎の歌碑がある筈だが、宿泊しないので遠慮した。一度は泊って見たい風情ある面構えの老舗で気に入った。
  「ゆとうや」横の路地を辿ると、城崎文芸館が真新しい。ここには城崎を一躍有名にした志賀直哉の文学碑が色づいた紅葉で飾られ健在であった。「怪我をした。その後の養生に一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。・・「城崎にて」)」が銅板に陽刻された美しい文学碑である。この文学碑の建碑以来、外湯や老舗旅館に次々といしぶみが建てられ、、「文学碑のある温泉地」となった記念すべき文学碑である。
メニューへ                  − p.01−                    p.02へ