容赦なく降り注いで来る夏の光。熱中症予防に飲んだお茶はすぐに汗となって紀行ノートに滴った。紀貫之「月影はあかす見るとも更科の山の麓になが居すな君(拾遺和歌集)」を最後に、「これ以上の長居は・・」と、一時間近くの探索を終え、千曲川のアユ釣り人を写真に収めて、引き揚げた。 (写真:万葉公園全景・田中冬二詩碑・笄の渡し芭蕉句碑)
「笄の渡し(*5)を通って坂城の駅へ」と運転手にお願いした。が地元の運転手も「笄の渡し」は知らなかった。無線で聞いてもらったが判らない。地図でも確かめられなかったので不安がよぎったが、兎に角、千曲川に沿って走ってもらう。 五里ヶ峰の山裾が千曲川に突き出た地形が行く手を塞ぐ。現在でも、千曲川と北国街道(現・国道18号線)が辛うじて山裾を這うだけの、「横吹」と呼ばれる難所。その川原に一群の松原が見えた。芭蕉の句碑のある旧跡「笄の渡し」だと直感して車を寄せてもらう。 東屋脇の低木の陰に一茶の句碑「よこ吹や猪首に着なす蒲頭布」が難所を避けるように隠れ、その先の木陰には芭蕉句碑「十六夜もまだ更科の郡かな」が、山崩れの土中から蘇るという数奇な運命を終えて、静かに休んでいた。句は更科紀行の旅での詠。姥捨の十五夜月で名句「俤や姥ひとり泣く月の友」を詠み、姨捨から門人の多い坂城に移って、十六夜月、立待月と三夜連続で月を愛でたらしい。「まだ更科」の詩句が月見から離れられない(さらしな=去らない)芭蕉の心境をよく語っていた。 昨年のNHK大河ドラマ「風林火山」で永島敏行が演じた村上義清の劣勢ながらも堂々とした戦いぶりが、今も、私から離れない。彼の居城・葛尾城は見上げる山の中腹に築かれていた筈だ。如何にしてこの難所をか弱い奥方たちが転げ落ちてきたのかと、ドラマの落城のシーンに思いを馳せた。河原を覗くと賑やかにツバメが飛び交っていたが、園地は見捨てられていた。 一時間に二本の電車の時間が迫ってきた。私は急いで、車に戻り、坂城駅にやってもらった。 戦国時代の城郭を思わせる黒塗りの駅舎の隣で、花に囲まれた、高浜虚子句碑「春雷や傘を借りたる野路の家」と若山牧水の歌碑「春あさき 山のふもとに 畑をうつ うら若き友と なにをあたりし」を調べていたら、電車の音。「信州希代の名将・村上義清」と染め抜いた赤い幟がはためく中、電車は浅間山麓・軽井沢に向かって静かにすべり出した。 信濃追分、沓掛が近づくにつれて、私に中に信州の旅の思い出が次々と蘇り、「私の更科紀行も終盤を迎えたな」との思いが湧き上がってきた。 *5.「笄(こうがい=かんざし)の渡し」の故事については、立派な案内板があった。「北信濃一帯を支配していた豪族・村上義清は信玄との三度目の戦いに敗れ、居城葛尾城は、 天文22年(1549)4月、落城を迎える。義清の奥方は、敵の目を逃れながら村上氏の一族山田氏の守る荒砥城(上山田温泉の後方の城山)へ落ちのびようと千曲川の渡し場から乗船。荒砥城への道を細かに教えてくれた船頭の親切に感謝し、礼として髪にさしていた笄を贈った。以来、渡し場は「笄の渡し」と呼ばれるようになった。立派な案内板まで設置されているのに地元の人も知らなかったのには驚いた。 出会った二つの詩へのご招待−ひまわりをクリック P.04へ − P.05最終− メニューへ