背後に上山田温泉街を従え、冠着山を背負って詩碑が建つ。12年前の姿そのままで、懐かしさが込み上げてくる。御影石の原石に黒御影石をはめ込んだ碑面の短い詩句「その橋は まことながかりきと 旅終りては 人にも告げむ・・・(詩「千曲川」)が輝く。台石にある昌子夫人の撰文による略歴*4が若くして逝ってしまった詩人の生涯を語る。
  私は誰も居ないのを幸いに、室生犀星の弔辞の第一声に倣って、「のぶすけ!」と声をかける。「また、訪ねて来たよ」と再会の挨拶を述べる。「鎌倉の浄智寺裏の“のぶすけの家”の脇を通るたびに、『津村昌子』の表札が掛っているのを確かめているから、きっと、貴方の愛した奥方はご健在だと拝察しています・・・」と報告し、「あの人は死んでゐない/あの人は生きてゐない/だが あの人は眠ってゐる/小さな町の 夜の雪に埋って/ひとの憩ひの形に似て・・・(津村信夫:詩「雪余尺」部分)と詩集の言葉を借りて、こちらの身の上に降り積もった日々の出来事をぶつぶつと呟いた。
  振り返れば万葉橋の長い橋梁が逆光に浮かぶ。私は名残を惜しんで何度も詩碑を眺め逢瀬を終えた。
*4.津村信夫(1909年−1944年)。兵庫県神戸市生まれ。兄は映画評論家の津村秀夫。慶應義塾大学経済学部卒業。東京海上に勤務しながら、室生犀星に師事し詩作。堀辰雄、立原道造らと詩誌『四季』を創刊。代表詩集『愛する神の歌』は、叙情的作風で、愛読された詩人。私にとっては、詩集を求めて古本屋を歩き回った、懐かしい詩人。
       
        (写真:山口洋子「千曲川」歌碑・万葉歌碑碑面・津村信夫「千曲川」詩碑)

万葉橋に駆け戻る。先ほどの小公園とは反対側の橋の上流側堤防にそって「万葉公園」と名付けられた園地がある。小さな園地には、所狭しと、22基もの文学碑が立ち並ぶ。私は二度目で勝手を知っていた。ただ、この公園は戸倉・上山田温泉の客寄せのための設置との認識は誤っていた。
  公園の一番奥に隠れていて前回見逃した、記念碑には「権少僧都成俊 萬葉集研究之地碑−古の姨捨は今の冠着山なり、仙覚萬葉集の成俊奥書に信州姨捨山(冠着山別称)の麓に於て、草を結びて庵となし、余生を養ふ・・・(以下略)」とこの地と万葉集のゆかりが記されていた。(帰ってから散々調べたたが、「成俊は14世紀の藤原家の系統の人。この地で先達・仙覚編纂の万葉集を元本に万葉研究をした」との情報以外は未詳)
  万葉研究の故地に因んで、山上憶良(銀も金も玉も何せむに 優れる宝子にしかめやも−5:803)、志賀皇子(石走る垂水の上のさ蕨の 萌え出づる春になりにけるかも−8:1418)を始めとする7基の万葉歌碑が建てられたようだ。庁舎前、住吉公園、万葉公園・・・と、遠い昔の記録を掘り起こし、言霊を蘇らせる、人々の万葉集を愛する気持ちが溢れる町であった。
  万葉集以外にも、宗良親王・小野小町・小林一茶・加舎白雄・賀茂真淵・佐久間象山とこの地にゆかりの深い人々や歌が並ぶ。更に、近代では高浜虚子・若山牧水・臼田亜浪の俳人・歌人に交って、田中冬二の詩碑「・・・さびしき魚の眼は/うつくしき夕空を/映せるなずなや(詩・千曲川の歌)」まで揃っていた。
  津村信夫も田中冬二も夕暮れの千曲川を詠っている。こんな強烈な日差しの中ではなく、軟らかい夕暮れの光の中で、今一度、二人の詩を味わって見たいとの思いに捕われ、私は詩碑から立ち去り難かった。
  古来、「姨捨伝説」の山・冠着山(姨捨山)を背景にした「田毎の月」は土佐の桂浜・琵琶湖の石山寺と並ぶ三大月の名所で、歌枕の地となり、数多くの文人墨客が更級・姥捨の地を訪れているから、誰の、どんな作品を選ぶかに苦労したと思われるが、この更級の地に芭蕉が居ないのが不思議に思えた。きっと、姨捨の名月に酔って、温泉に入る時間がなかったのであろうか。
  P.03へ戻る                   −p.04−           P.05(最終)へ