*3.昭和29月、志賀直哉は一人信州戸倉温泉「笹谷ホテル」に滞在して小説「邦子」を書き上げた。「『豊年虫』は『邦子』を書き上げ、やれやれとくつろいだ時の自分の状態を書いたもの(創作余談)」と書いている。笹屋ホテルの案内書には「当館に万松閣、清涼館、奥別荘、豊年虫の4つに分かれている。それぞれ趣が異なるが、中でも豊年虫は特別。建築家の遠藤新(旧帝国ホテルを設計したライトの愛弟子)が設計した建物で、かつて志賀直哉がここに滞在し、小説「豊年虫」を執筆したことから命名。客室が八つあり、一つとして同じ造りの部屋はない」とあった。
      
        (写真:温泉街の凌霄花・笹屋ホテル玄関・中央公園の井上靖文学碑碑面)
  お盆休みが始まったのに温泉街には人の気配が少ない。一組の客を十数人の従業員が玄関で見送る光景を何度か目撃した。これでは旅館の経営も大変だろう・・・などと思いつつ、私は「豊年虫」に描かれた蕎麦屋「豊年屋」を探した。が、道を間違えたようで、見つからぬまま、中央公園に行き着いた。
  「公園敷地の運動場で小学校の教師達がベースボールの試合をしていたことがある。私は初秋のまだ暑い午後の陽を斜めに浴びながら、それを仕舞まで見ていた」(「豊年虫」)と描かれている公園だが、運動場は消えていた。子供たちは蝉取りに、こちらは、井上靖文学碑(「潮が満ちて来るやうな そんな充たし方で 私は私の人生を 何ものかで充たしたい」(昭和30年小説「姥捨」の取材で当地を訪れた時の色紙より)に夢中になった。
  私は、果たして残る人生を“いしぶみ”で充たして行くことになるのだろうか・・・と碑の前を行ったり来たりした。短い命を必死で燃やし続ける蝉の声がその答えだ、と言い聞かせて、再び木陰から日差しの中へ、住吉公園を探す一歩を踏み出した。
  準備した地図を何処かに落としてしまい、二度も違った場所を教えられて空振りの汗を流し、漸く、木槿の咲き誇る住吉公園に到着した。
春の苑紅にほふ桃の花 下照る道に出たつをとめ」大伴家持(19・4139)
住吉の岸を田に墾り蒔きし稲のさて刈るまでに逢はぬ君か作者未詳・10・2244
  二基の万葉歌碑が人の気配のない公園の片隅で憩っていた。前者は、阪大で万葉集を教えていただいた犬養孝先生の達筆。家持の越中時代の名歌として有名だが、この地とのゆかりはなさそう。歌に因んで傍らに桃の木が植えられ、格好の木陰を作って、碑を守っていた。「ピチクリ、ピチクリ」と啼く雲雀の声だけに見送られながら、私は、やっと迷路から抜け出した。
  文化会館の十字路から千曲川の堤防に登る。川面を渡る風をおやつに一服する。万葉橋の西側の袂には小公園。私が前に訪れた時は三基だったが、当地の歌人・清水野生の句碑を加えて四基に増えていた。
水の流れに花びらをそっと浮べて泣いたひと・・・」山口洋子(歌謡曲「千曲川」)
信濃なる千曲の川の細石も君踏みては玉と拾はむ」万葉集・作者未詳14・3400)
この川に一つとなりて流れゆく 親しさを見よ水の心の山崎等(当地出身歌人)
泉水の鯉も動かず午(ひる)さがり」清水野生(当地出身佐々木信綱門下歌人)
  何れもが立派な仕上がりの碑で堂々と千曲川に対峙していた。特に、万葉歌碑は佐々木信綱の揮毫で、その流れるような文字を銅板に陽刻した碑面には今回も感じ入った。
  
  この小公園から500mほど下った所に、津村信夫詩碑が座っている。炎天下とは言え、ここまで来たからには再訪しないわけには・・・と川面を眺めながら、私は一汗かくことにした。
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