各々の碑の周りを草木が飾る。最後の歌碑の先では萩の花も少し花を付け始め、舞台装置は万全で、この地の人々の愛情が伝わってきた。私はといえば愛唱する笠金村の「草枕旅行く人も行き触れば にほひぬべくも咲ける萩かも(81532)」を思い起こしながら、川畔まで歩を進めた。
       
       (写真:咲き始めた萩の花・コスモスの向こうに万葉歌碑・月見草も勢揃い)
  八ヶ岳の麓から、佐久平・小諸・上田・・・と流れてきた千曲川は、善光寺平の入口に当る当地で、一気に川幅を広げる。遥か遠くの対岸に向かって、「豊年虫」に描かれている、大正橋が延びていた。
  自動車は千曲川の長い橋にかかった。橋板がカタカタとけたたましい響を立てた。「えらい豊年虫だぜ。恰で雪のようだ」今まで黙っていた運転手が前を向いたままいった。みんな窓の外を見る。橋には二十間おき位に電柱が立ってい、それに電灯がついていた。そして此処でも無数の蜉蝣(*1)がその灯の周りに渦巻いていた。
  舞台となった大正橋は、あれから何度か架け替えられていたので、「カタカタ」とは響かなかったし、時間も季節もカゲロウの舞うには少し早すぎた。
  下流左手には田毎の月の名所・姥捨の集落が、右手には川中島合戦の古戦場が光る。上流に目をやれば、右手に戸倉・上山田の湯の町、津村信夫「千曲川」の詩碑が豆粒のように堤防の上に座っていた。
  太陽がいっぱいであったが、吹き抜ける風は涼しく、爽やかな気分で歩いた。中央付近の欄干には竹久夢二の美人画と正木不如丘の「戸倉小唄」をあしらったパネル(昭和2年に作られた観光絵葉書の複製)が嵌め込んであった。「私の更科紀行・姨捨」を思い起こしながら、私はゆっくりと長い橋を渡った。
  渡った所に佐良志奈神社(*2)が座っていた。「豊年虫」に「松杉の大きな森に被われた広い境内に縁の無闇と高い本殿と、七八間へだたって本殿よりも大きな拝殿を持った社だと描かれた風情は変わらずに残っていること確かめ、湯の町に踏み込んだ。
       
        (写真:「戸倉小唄」パネル・・佐良志奈神社大正橋からの戸倉上山田温泉遠望)
*1.カゲロウ(蜉蝣)は、カゲロウ目に属する昆虫の総称で種類は多い。が何れも寿命が短い。戸倉上山田地方では昔から豊年虫(ほうねんむし)と呼び、カゲロウの大群は豊年満作を予告する瑞 兆としてきた。
*2.佐良志奈神社:創立年代は不詳。後醍醐天皇の第四皇子・宗良親王の更科での御所であった。親王は南北朝時代の戦乱に巻き込まれ、南朝側の敗北で当地に落ち延びた。歌道の家であった二条家出身の母を持ち、歌人としても著名。

私は青空に映える凌霄花に励まされながら人気の少ない温泉街を歩いた。志賀直哉が「豊年虫」を書いた「笹屋ホテル」(*3)は戸倉・上山田温泉街の入口で待ち構えていた。中庭にあると聞く四賀光子の歌碑や小説に因んで建てられているホテル内の「豊年虫」別館の佇まいを見たかったが、あまりの豪華さに圧倒されてしまった。持参した資料と、玄関の写真で我慢して、先を急いだ。

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