(写真の左から氷室神社・真言院・佐々木邸宅の歌碑・伊東市万葉の小径歌碑) 大阪中央区のいしぶみ 家持の“かささぎ”への道で出会ったいしぶみ達などを簡単に記しておきたい。 懐かしい千日前を歩き、寺町のいしぶみを訪ねる 一週間にわたる父の介護を無事に終えて、和歌山市駅から南海電車の特急に飛び乗り、睡眠不足で重くなった脳細胞を懸命に働かせて、これからの訪ねる梶井基次郎の墓参と、大伴家持・百人一首歌碑に思いを馳せた。 大阪「南の繁華街」の人込みを掻き分ける。千日前の雑踏は残っていたが、昔のむせ返るような熱気は少なく、妙に、小奇麗になっていた。真直ぐ北に向えば道頓堀川の戎橋。「千日前通」で東に折れた。道頓堀はこれから訪ねる近松門左衛門の「心中重井筒」の舞台だし、以前訪ねた、織田作之助文学碑(法善寺横町)や小野十三郎の詩碑(日本橋北西詰)もある。 地下鉄「日本橋」駅の7号出口の脇で、谷崎潤一郎「蓼喰ふ蟲」の文学碑に再会。相変わらず、汚い植込の中に取り残されていた。国立・文楽劇場の先、「千日前通」と「松屋町筋」との交差点北西隅の植込(ホームレスの溜まり場らしく、二人の男がお昼寝の最中)の中に近松門左衛門文学碑(「心中重井筒」の一節刻)を発見。碑文は彫りが浅く判読出来ない。案内板もなく、これでは大阪を代表する文学者の遺跡だと誰も気が付かない。やれやれ・・・との思いばかりか青空に消えた。 空しい気分で松屋町筋を南へ下る。上町台地は寺の町だ。萬福寺で芭蕉句碑「尊かるなみだや染てちるもみぢ」と浄国寺の墓地の奥の「夕霧大夫墓」(太夫は、日本三太夫の一人として、江戸の高尾、京の吉野と並び評され、近松門左衛門の『夕霧名残り正月』や井原西鶴の『好色一代男』モデル)に彫られた上島鬼貫の句「比塚は柳なくてもあはれ也」を苦労の末に発見。 下寺町交差点から上町台地に登り生国魂神社に参詣。石畳の参道に座る西鶴坐像(延宝8年(1680)に一昼夜で4000句の独吟をこの南坊で樹立して世間を驚かせた)、境内社・八幡神社前で、芭蕉句碑「菊に出て奈良と難波は宵月夜」を調べて先を急いだ。 芭蕉の句碑の碑陰には「元禄7年(1694)9月9日(陰暦)、奈良より難波に到着、重陽の節句で賑わう当神社での詠」とあった。芭蕉がこの神社から直線で南西に2kmほどの御堂筋(久太郎町3)の花屋仁右衛門宅で永眠したのは元禄7年10月12日(陰暦)だから、この発句のあと40日ほどの命しかなかった。そこには終焉地記念碑や、南御堂には「旅に病でゆめは枯野をかけまはる」の句碑がある。 梶井基次郎の墓に詣でる 上町台地を北へ。谷町9丁目の交差点から中寺町に入る。いよいよ、梶井基次郎(*5)の眠る場所を訪れるのだと胸が高まる。常国寺は小さく鎮まり返っていた。山門脇には細長い「梶井基次郎墓所」の案内標柱。門を潜り、本堂右横の細道から裏手の墓地へ。200坪ほどの墓地には墓碑がぎっしりと立ち並ぶ。墓地中央付近で窮屈そうに建つ墓を発見。墓碑には親友の中谷孝雄が書いた「梶井基次郎墓」の文字が骨太に掘り込まれていた。梶井基次郎の足跡を追って、伊豆湯ヶ島、伊丹市千僧、大阪靱公園・・・と巡って来た事を報告しながら、手を合わせた。 p.05へ −p.06− p.07最終へ |