貴方様の歌暦を辿って見ますと、ご幼少の頃の大宰府での日々が大きく浮かび上がって参ります。お父上様は無論、筑紫詩壇を形成していた万葉歌人・山上憶良、優れた歌人として名を残された叔母様の坂上郎女、貴方様を取り巻く文化の薫りが、貴方様の歌心を目覚めさせ、歌人として立派に成長する基盤を形成したのでは、と思っています。
  貴方様の奥様となられた叔母様のお嬢様・坂上大嬢に贈られた歌
撫子がその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ」(3-408)
夕さらば屋戸開け設けて我れ待たむ 夢に相見に来むといふ人を」(4-0744)
などは、現在でも、恋の歌として愛唱されています。


  29歳の夏(天平18年・746)に北国・越中守として北国に赴任され、34歳で戻るまでの越中守時代が、貴方様が一番多くの歌を詠まれた時代で、異郷の風土に接した新鮮な感動を伝える歌の数々は、縁の土地で歌碑に刻まれ、多くの人々に大切に守られています。
  越中時代のピークをなす以下の歌も、秀歌として時代を越えています。
春の苑紅にほふ桃の花したでる道に出で立つ乙女」(19-4139)
もののふの八十乙女らが汲みまがふ寺井のうへの堅香子の花」(19-4143)


 越中から帰京したものの、政治的に恵まれず不遇を囲っていた時代の「春愁三首」
春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鶯鳴くも」(19-4290)
我が屋戸のいささ群竹ふく風の音のかそけきこの夕へかも」(19-4291)
うらうらに照れる春日にひばりあがり心悲しも独りし思へば」(19-4292)
は貴方様の代表歌として、現在、絶賛されています。
  面白いことに、これらの歌はしばらく眠っておりました。貴方様が、一時、逆賊扱いを受けたこと、これらの歌が、貴方様の時代やそれに続く時代に見られない、近代人に近い感覚を持っていたことなどが原因だと思われますが、名歌としての扱いを受けませんでした。これらの歌に示される「繊細で自意識過剰の近代人の悲しみのようなもの」(梅原猛)が貴方様に続いた人々には理解し難く、わが国の近代化が進むにつれて甦って来たようです。私共は、柿本人麻呂、山部赤人、の歌には見られない貴方様の感興に共感を覚えるのですが・・・。近代歌人を代表する斎藤茂吉の「うらうらと天に雲雀は啼きのぼり雲斑(はだ)らなる山に雲ゐずります」という派生歌を生み出していることをお伝えして置きたいと思います。


  やがて貴方様の仕事が、地方の文官の世界から、大伴氏本来の「武」の世界に戻り、難波京で「兵部少輔・兵部大輔」として、「海原に霞たなびき鶴が音の悲しき宵は国辺し思ほゆ」(20-4399)と防人たちの気持ちを詠み、防人たちが詠う歌と共に過ごす日々が多くなったと伺いました。
  目まぐるしく変る政治情勢は、大伴一族の存亡をかける日々でもあり、そうした日々は、次第に、貴方様から歌心を奪って行った様に見受けられます。秀歌を生み出すより、故郷を離れ、愛する人と別れて遠国にやってきた防人たちの歌に親しみ、それらを世に残すことに力を注ぐ日々に変わって行ったと拝察しております。でも、そんな日々が結果的に、天皇から名も無き人々の歌まで総てを収める国民的歌集・万葉集を生み出すという偉業につながったのではないでしょうか。
  天平宝字3(759)年、貴方様が42歳の年に因幡国にて国守として詠まれた歌「新しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事」(20-4516)を万葉集全20巻、4500余首の最後を飾る歌として撰び、万葉集を完成されたことは、歌人として貴方様を後世にまで、末永く、記憶させることになりました。
  蛇足ながら、梅原猛は「万葉集の編纂は藤原仲麻呂勢力に対しておこなった文化的戦い,イデオロギーの戦いであったのである。政治的に敗者になった家持の万葉集は、このため、勅撰集にならなかった」と指摘しておりますが、如何でしょう。
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