うつりゆく時見るごとに心いたく昔の人し思ほゆるかも(20-4483) 大伴家持さま まもなく”かささぎの橋“を見ることが出来る季節を迎えようとしております。 昨年の夏に、農家の庭先の歌碑でお目にかかって以来、ご無沙汰いたしており、申し訳なく存じます。先日、大阪の森之宮神社で貴方様の歌碑にお逢いし、いたく感激致しましたので、今少し、貴方様の生涯を辿り、偲んで見たいとペンを執りました。 貴方様のご先祖のご活躍は史書に詳しく残っておりますが、万葉集に貴方様が撰ばれた長歌「族(うから)に喩(さと)す歌」(20-4465)とその反歌「磯城島の大和の国にあきらけき名に負ふ伴の男こころつとめよ」(20-4466)を拝見いたしますと、素晴らしいご先祖様の姿と、劣勢を余儀なくされている大伴一族の立場が鮮明に浮かび上がってきて、そんな難しい時代に、一族の先頭に立ち、一族を鼓舞しなければならなかった貴方様に思いが至ります。 私共が「花の天平文化」と呼んでいる華やかな時代ではありましたが、社会・政治的には豪族が入れ替わり立ち代り権力闘争を繰り返し、何度も遷都が行われた、大変不安定な時期に貴方様は身を置かれて居られたのですね。 時代は,日本を支配してきた氏族制度の矛盾が限界に達し、豪族の時代から天皇が統べる時代へと変って行き、律令制の採用による官僚国家建設が進められた時代と歴史に記されています。権謀術策にたけた藤原鎌足とその子藤原不比等ら藤原一族が,大化改新(645)、大宝律令の発布(701),貨幣の鋳造(708),古事記・日本書紀の選定などを通じて、着々と、勢力を拡大し、貴方様一族を追い落として行ったと高校の授業で教えられました。 貴方様が、弱冠13歳の時に大伴氏の中心だった父・大伴旅人を失い、誉れ高い大伴氏を引き継がねばならなかった時の重責は、いかばかりであったかと想像いたします。 時代の荒波にもまれた貴方様は「越中守」「兵部少輔・大輔」「因幡守」「薩摩守」「参議」「中納言」・・・と陸奥国において生涯を閉じられる(延暦4(785)年まで、政権の中央から遠い時期が多かったとはいえ、左遷と凱旋の綾なす、波乱万丈の生涯を送られたと歴史が伝えております。 「大伴家持は,柿本人麿についで現われた大歌人であった。しかしその人生の意味は違う。人麿の人生は悲劇であった。しかし家持の人生は,悲劇ではない。むしろその煮えきらぬ反逆の一生は,喜劇的であるようにすらみえる」(哲学者・梅原猛)との評があります。逆流の中では、喜劇的な生涯を送る以外に、「名誉ある大伴氏」の命脈を保つ方法がなかったのではないかとご同情申し上げる次第です。 政治的・社会的には幾多の変遷を経て今日に至りましたが、貴方様が一翼を担われた天平文化の数々は、今も世界に誇る日本の文化として、大切に守られ、愛されています 東大寺を筆頭にした奈良の諸寺や各地の国分寺の建築文化、奈良の大仏を頂点とする諸仏像に示される彫刻文化、正倉院に大切に保管されている御物の数々、そして、国民歌集「万葉集」・・・何と素晴らしい宝物を残してくれたことでしょう。それらは、1500年近い風雪に耐え、今も、光り輝いて居ることを謹んでご報告申し上げます。 政治的には不遇で、確たる功績を残せなかった貴方様ですが、万葉集の編纂に大きく寄与され、文化的には歴史に残る偉大な業績を残されました。歌碑を拝見する前に、偶然にも、真田山公園近くで、江戸前期の国学者・契沖の庵跡の前を通ってきました。契沖こそ、「万葉代匠記」などの万葉集の研究で、貴方様のご功績を世に送り出した方です。貴方様の歌碑を眺めながら、そんな偶然の出会いにも思いを馳せた次第です。 p.02へ −p.03− p.04へ |