*1:神社の由緒:聖徳太子の創建。父母の用明天皇と穴穂部間人皇后を神として祀ったことに始まる 。用明天皇の崩御後、太子は自ら尊像を彫刻、宮殿を造営。最盛期は、境内も八町にわたり、本殿から楼門に至る迄、華麗で目を驚かすばかりだったと伝わる。旧社名を鵲森宮(かささぎもりのみや)というのは、難波の杜と言っていた推古天皇の時代に、難波の吉士磐金(きしいわかね・新羅に渡ったわが国鉄鋼業の祖)が、新羅国(朝鮮)から帰国した際、鵲を2羽献上し、この森に飼われたところから「鵲の森」と称えられたとのことに由来する(日本書紀記述)。
           


  幼い時分、「天の川伝説」も知らず、深夜、冬の橋の上に”かささぎ”がぽつんと立っている風景を思い浮かべていただけであったが、この歌の解釈には二つの説がある。
  一つは、天平勝宝8年に、聖武太上天皇、孝謙天皇、光明皇太后らと共に河内国伎人郷(今の東住吉区喜連の地)で宴を催した時の詠と考える説である。その地には、難波京近くの鵲森宮の東側に流れ込む、「天野川」と呼ばれた白砂の川が流れていた。白い天野川から、中国から伝わってきた「七夕の夜だけに鵲が天の川に羽根を並べて、橋を作り、織女を渡らせる」との美しい天の川伝説(*2)に思いが跳んだ。鵲はカラス科の鳥で真っ黒な鳥だが、腹と羽先の所だけが真っ白。黒い夜空に輝く天の川、天の川に渡された鵲の橋、その鵲の白さをしらじらと光る星を置く霜になぞらえた先人の詩想(*3)を思い浮かべながら、この歌を詠んだと思われる。作者は天上の天の川に架かる空想の橋、白く光る星々から地上の真っ白な霜へと想いを広げている、前掲の田辺聖子の訳文はこの説に比重を置いている。
  今一つの解釈は、賀茂真淵(*4)以来、「橋」を「宮中の階段・きざはし」と読む説。「七夕の夜 かささぎが羽を連ね 思われ人を向こう岸に渡してやった天上の橋よ 今は冬 かの天の橋に紛う宮中の御階にまっしろな霜が降りている 目に寒いこの霜ゆえに しんしんと夜は深まる(大岡信訳)」。万葉集の時代ならいざ知らず、百人一首の時代には「橋」を宮中の階(きざはし)と解釈するのが妥当との説である。
  前者の訳文では「天上の夜更け」を中心に、幻想的な雰囲気が伝わって来る。一方、後者の訳文では「地上の夜更け」を中心に、深閑とした冬の寒さが伝わってくる。何れにせよ、繊細な家持の歌風を示す名歌であるが、筆者は前者の解釈を好む。


*2:「烏鵲(うじゃく)河を填(う)めて、橋を成して以て織女を渡す」(出典は前漢の哲学書『淮南子』)。因みに、橋を渡るのは中国では”織女”、日本では”彦星”だと言い伝えられている。
*3:家持の夜空にしらじらと光る星を霜に喩える詩想は「月落ち烏啼いて 霜天に満つ 江楓漁火愁眠に対す 姑蘇城外の寒山寺 夜半の鐘声客船に到る」(張継の七言絶句「楓橋夜泊」)を踏まえているとの指摘が古くから提示されている。
*4:『大和物語』百二十五段の壬生忠岑の歌「鵲の渡せる橋の霜の上を夜半にふみわけことさらに こそ」では御殿の御階(みはし)を「かささぎのわたせるはし」に喩えており、これに基づき賀茂真淵は宮中の御階(みはし)の比喩と解した。



     
     (百人一首かるた1:筆者の
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