森之宮神社で”かささぎ”に出会う 大阪城の南東側、上町台地が平野に移行するあたり、大阪環状線・森ノ宮駅の一帯は、古くは、森の宮遺跡である。その遺跡跡に森之宮神社が鎮座する。神社の旧社名が「鵲森宮(かささぎもりのみや)」(*1)、鎮座する場所を「鵲の杜」だと知ったのは、百人一首の歌碑を調べ始めてのことだ。本殿に参拝。長押に”かささぎ”二羽の彫刻が飾られているのをしげしげと眺め、歌碑に取り付いた。 社殿の左手、細長い青石に碑文を載せて、大伴家持歌碑「鵲之(かささぎの)渡瀬瑠橋迩(わたせるはしに)置久霜乃(おくしもの)白気乎見者(しろきをみれば)夜曽更仁来(よぞふけにけり)」が、ビルの隙間から漏れる夕陽に、光っていた。碑面は万葉仮名のみで出典は「家持集」とあった。従って、百人一首では新古今集からの出典なので第五句が「夜ぞふけにける」となっているが、第五句は「夜ぞふけにけり」と読むのであろう。。 平成11年にこの歌碑が建てられたのは、38歳の大伴家持が難波宮で兵部少輔として防人を管理する役についていた頃の作で、神社の名前「かささぎ」を詠んでいることに由来すること、江戸期には鵲村や鵲橋があったこと、など碑陰に記されていた。 この歌は家持の真作ではないとの説もあるが、作者は誰であれ、名歌であることに変わりなく、百人一首の中の好きな歌の一つである。 「天も地も凍る中、橋の霜のみが白い。これはなんだかお正月の夜らしい感じを呼び起こす歌」(田辺聖子)との評や、「この歌の調べに耳を澄ましていると、しんしんと更け行く夜の足音が聞こえて来て、悠久の時間の流れといったような余韻が感じられる」(白洲正子)との評釈は胸にすとんと落ちる。 人気のない境内で家持の歌意、先人達の思いを辿るひと時を過ごす。家持が勤めた難波京はここから500mほど西で、その先には海・・・と往時の風景を想像しながら、書き留めてきた難波京での歌を読み、波乱多き大歌人の生涯に思いを馳せた。 桜花いま盛りなり難波の海 おしてる宮に聞こしめすなへ(20-4361) 海原のゆたけき見つつ蘆が散る 難波に年は経ぬべく思ほゆ(20-4362) 神社の北側は大阪城の南東の入口。緑の濃い風景が疲れた眼に優しく、遠くの天守閣が夕陽に光っていた。伊丹空港に急ぐべく、森ノ宮駅から大阪駅を目指した。京橋、桜ノ宮、天満と懐かしい名前が、青春の思い出と共に、車窓を過ぎて行った。 (森之宮神社本殿・大伴家持歌碑・本殿のかささぎ彫刻↓印・かささぎ借物写真) メニューへ −p・01− p.02へ |