そうそう、ふくろうがお月さまから聞いた、西欧の神話もお餞別に贈るよ。
  「この世の出来事にはぜんぶ意味があって/すべてのものは在るべくしてそこに在り/すべてのことはなるべくしてそうなっている
  どうか、今回のことは、定められた事として、素直に受け入れて下さいね。
  今ひとつ、北海道への途上、花巻へ立ち寄って見たらどうかな。
  宮沢賢治が「イーハトーブ」と名付けた素敵な世界で、賢治の旧居跡(妹・とし子が亡くなった場所)には、あの有名な「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモ負けケズ」の詩碑がある。また、とし子の母校・花巻高女(現・花巻南高)には「とし子とし子/野原へ來れば また/風の中に立てばきっと/おまへをおもひだす/おまへはその巨きな/木星のうへに居るのか」の詩碑もある。長閑な学校の校庭にあって、直ぐに見付るから、ついでに見ていくといいよ。


  さて、残された私達も、宮沢賢治の「オホーツク慟哭の旅」に倣って旅に出るよ。北海道で出会ったら、今練習しているピアノ曲・「千の風になって」を一緒に聞こう。
  たまには、横浜にも遊びにおいで。懐かしい氷川丸は、貴女と同じように今は長い旅路を終えて横浜の港で静かに眠っているが、まもなくお目覚めらしい。そしたら、思い出の船上で、あの時と同じ様に、豪勢なパーティーをしようよ。
  では、またね。ゆっくりと休んで。
       
  (旭川・知里幸恵文学碑:花巻・宮沢賢治「風林」詩碑:「千の風になって」−クリック拡大
                                      (2008.02.03.悲しみを隠す雪の日に記す)
三好達治(明治33年大阪生。昭和39年 東京で永眠。63歳)−日本の近代詩は萩原朔太郎が開き、三好達治が閉じた(石川淳)と云われるが、萩原朔太郎に師事しながら、独自の主知的叙情を謳い上げ、形式に於も様々な模索をして、近代詩を現代詩に引き継いだ功労者。数々の文学賞に輝き、昭和28年芸術院賞受賞、昭和37芸術院会員となって、晩年を飾った。深く愛した日本の風土と言葉を求めて全国を歩き、知的な抒情詩を書いた旅の詩人。その足跡を記す文学碑も全国に広がり10基(内訪問済み6基)を超える。
詩集「測量船」には、代表作の一つ、「雪」(
太郎を眠らせ 太郎の屋根に雪ふりつむ/次郎を眠らせ 次郎の屋根に雪ふりつむ)も収められている。この詩碑が信州志賀高原東館山頂上に建つ。麓の発哺温泉天狗の湯に泊り、標高2100mにある詩碑を二度も訪ねた思い出が残る。
宮沢賢治(明治29年岩手県花巻市生。昭和8年花巻市で永眠。37歳)−日本人なら誰でも知っている詩人。文学史上にとてつもなく大きな足跡を残した巨人である。活動の範囲は童話・詩・音楽といった芸術の分野から、教職者、農業指導者・鉱山技師者・日蓮宗伝道者・・・と広がる。花巻市の宮沢賢治記念館は広大な敷地を誇るが、彼の足跡を納めるには狭すぎる位だ。研究書の数も日本一。代表作 童話「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」「注文の多い料理店」、詩集「春の修羅」(第一〜第三集)。
大正10年8月、妹トシの急病の知らせを東京で聞き、賢治は日蓮宗の修行を擲って花巻に戻る。必死の看病の甲斐なく、トシは翌大正11年11月27日に24歳で永眠。悲しみを「永訣の朝」「無声慟哭」「松の針」の三編に結晶させたが、その後、半年以上、ペンを絶った。大正12年7月から8月にかけて、青森、北海道を経由してサハリン(樺太)まで一人で旅に出た。前年に亡くなった妹・とし子への慟哭の旅、鎮魂の旅でもあった。巨人の足跡は岩手県を中心に、全国津々浦々に、文学碑・詩碑として残る。その数は60基近く(内27基訪問済)ある。いしぶみ紀行・宮沢賢治の旅は前途遥かである。
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