多摩丘陵の南端の一室。安らかに眠る顔が朝の光を浴びていた。 「森の賢者」ように音も立てず飛び立つ、静かな旅立ちであった。 貴女を知っている人が、この世に一人でも居る限り、貴女は生きているよ・・・と手を合わせた。 ふくろう 戦後の大混乱がまだ収まらぬ、昭和24年に東京・西荻窪の自宅で貴女は産声を挙げた。両親の慈愛を一身に受け、武蔵野女子短大で、青春真っ只中をマンドリン演奏に賭けていた。 父を見送り、母と共に横浜の家にやって来た。そして、素敵な出会いがあった。 昭和62年、横浜・山下公園に係留されていた豪華貨客船・氷川丸で結婚式を挙げた。貴女の新居から「ドラの響きに感動で胸がキュッとなりました」と感動の挨拶状が送られてきた。 貴女は京都の町が好きで、二人で何度も訪ねていた。三好達治の詩「甃のうえ」(あはれ花びらながれ/をみなごに花びらながれ/をみなごしめやかに語らひあゆみ・・)の世界を歩く、幸せな日々が二人を包んでいた。 (写真:結婚挨拶:詩「甃のうへ」−クリックで拡大) ギリシャ神話・アテナイの従者「ふくろう」が大好きで沢山のふくろう像のコレクションを大事に並べていた。「知恵の神」「森の賢者」と呼ばれるふくろうの化身の如く、賢く、物静で、辛抱強、何時も控えめな、貴女でした。 「幸運の印」(「不苦労と書き、苦労知らず」「福籠と書き、福が籠る」)とされるふくろうは、世界中の神話・伝説に登場している幸運の鳥だ。なのに何故か、10年前に突然、不幸な病気を運んできて、気の遠くなるような長い闘病が始まった。貴女は辛抱強く、必死でそれに耐え、笑顔を忘れず、「あとひと夏 あとひと冬」(ヘッセ)と生を紡いだ、十年もの長い間。 三好達治は若くして旅立った、立原道造に「暮春嘆息」と題する追悼詩を贈った。それには「人が詩人として生涯をおわるためには/君のやうに聡明に 純粋に/純潔に生きなければならなかった/さうして君のやうに また/早く死ななければ!」と書いてあったそうだ。貴女は一編の詩も書かなかったが、聡明で、深く物事を見ていたその生涯は「詩人としての生涯」であった。 ささやかな餞別 「今度は、北海道で」と言い残して銀河鉄道に乗り込んだね。北海道なら、ふくろうが「アイヌの守護神・コタンコロカムイ」として崇められている所だから安心だよ。 旭川市にある北門中学校の門を入ると、芝生の絨毯の上に、知里幸恵の文学碑が建っている。誰しもが、その見事な造型に感動する文学碑。よく見てください、御影石を五段にも積み上げた塔のような碑の天辺には「ふくろう」が居るよ。二段目の石には彼女が訳した「アイヌ神謡集」の有名な一節、「銀の滴 降る降るまわりに,金の滴 降る降るまわりに」が刻まれている。この詩句はアイヌの伝説でふくろう(コタンコロカムイ)が歌う歌だよ。歌いながら、心優しい人に、幸せを運んでくると言う。 きっと、北海道では、旅のお供のふくろう(福路と書き、旅の安全のお守)がこの歌を歌って歓迎してくれるよ。 p.02へ −p.03− p.04完へ |