常人には出てこない語句の選択、組み合わせ(例:「片片白し」「秋灯一閃」)には「さすが」と唸りました。そうしたプロ並の表現が溢れる中で、貴兄の感性の広さを示す幾つかの句、例えば、「向日葵の笑うてばかりゐて疲れ」「チューリップ列をはみ出す利かん坊」「狛犬の「あ」の口黴を吐きにけり」などに出逢った時には、お酒に真っ赤になり、満面の笑顔を振り撒きながら話す貴兄を思い出し、そのエスプリの利かせ方に思わずこちらも「にんまり」でした。
 
  今瀬剛一氏は序文で、「まさおなる空を残してさくら枯れ」を、作者の「個」が表現された代表句に揚げられています。市川市の弘法寺本堂右前「伏姫桜」脇に建つ富安風生の句碑「まさをなる空よりしだれざくらかな」と満開のしだれ桜を見た小生には、例えそれが冬の実景だとしても、貴兄の心情は難解でした。美しい桜の無残な姿に一体、貴兄は何を見たのでしょうか。「風生の満開の桜が、今は無残にも、"まさをなる空"に対峙している」と、ただその実景だけを、素直に感じ取れば良いのでしょうか。
  他にも幾つかの作品や文学碑を思い起こさせた句がありました。例えば、「霏霏と雪一本残すマッチ棒」は寺山修司の短歌の世界「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」、アンデルセン童話「マッチ売りの少女」を、「あかあかと茂吉の像へ花明り」は斎藤茂吉の名吟「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」に直結しました。この手法は先行する作品のイメージへの挑戦であり、元歌の世界の拡大、作者独自の視点・世界、があって、初めて成功するのではないでしょうか。大変難しいことへの挑戦でしたね。
 
  絵画も文学も、素人は素人なりに、そこに作者が居ると感じられることが重要だと、かねがね、思っております。作者の世界をどれだけ印象深く語れるかが決め手になると思っています。
  いしぶみ紀行・常磐で出逢った、作者独自の世界が展開されている名品は見事でしたよ。
                         


いしぶみ紀行・常磐−草野心平の世界−
  いわき市郊外の丘の上にある、詩人・草野心平記念館に辿り着いた。巨大な建物の記念館であった。花巻の宮沢賢治記念館、高崎の土屋文明記念館に匹敵する豪華さだ。館内にはいると正面の壁面は上から下まで巨大なガラス窓。そこに草野心平の「猛烈な天」の詩がぶら下がっていた。
血染めの天の。/はげしい放射にやられながら。/飛びあがるやうに自分はここまで歩いてきました。/帰るまへにもう一度この猛烈な天を見ておきます。
仮令無頼にしても眼玉につながる三千年。その突端にこそ自分はたちます。/半分なきながら立ってゐます。
ぎらつき注ぐ。/血染めに天。/三千年の突端の。/なんたるはげしいしづけさでせう。
  この巨大な天を仰ぐ窓から、夕焼けをバックにこの詩を読めばもっと深いものが押し寄せてきて、身震いするに違いないとしばらく眺め入って展示室に足を運んだ。
  展示室の薄暗い壁面は心平の詩で飾られていた。有名な「秋の夜の会話」(さむいね/ああ さむいね/虫がないているね/ああ 虫がないているね/もうすぐ土の中だね/土の中はいやだね・・・)の詩句がずしんと老いの胸に落ちた。
  帰りに記念館の庭で栽培されたという大根を二本もお土産に頂いた。
  隣接する双葉郡川内村(名誉村民。晩年はこの地の「天山文庫」で一夏を過ごす)に草野心平の世界と「蛙の詩」の舞台を訪ねたかったが、夕闇押し寄せてきたので、せめて生家だけでもと先を急いだ。
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