案内板には『この関は奈良時代に蝦夷の南下を防ぐ目的で軍事上の砦として築かれた。福島の白河関、山形の念珠関と共に奥州古三関と呼ばれる。平安時代、白河の関同様に、歌枕として、たびたび歌に詠まれるようになった。この関を初めて詠んだ小野小町の歌「みるめ刈る海女の往来の湊路に勿来の関をわれ据ゑなくに」、この関を天下の名所に仕立て上げた源義家の歌「吹く風をなこその関と思えども 道もせに散る山桜かな」が著名・・・』とあった。
  関門には源義家の騎馬像が見張り番。赤松の林に伸びる石畳に恐る恐る足を踏み入れ、「詩歌の小径」と名付けられた小径を頂上の記念館まで登った。
  両側に古今の有名人の碑が並んでいる。足を滑らせないように慎重に一基一基辿った。小野小町、源義家から、松尾芭蕉、斎藤茂吉、・・・とこの関所を詠んだ歌句が小雨に濡れていた。13基のいしぶみは何れも古寂び、彫は浅く、弱い光線では近寄らないと判読できなかった。関所記念館に着いたが観光客目当ての貧相なもので失望した。
  記念館の先には角川源義の句碑(ここすぎて蝦夷の青嶺ぞ海光る)。もう一度坂を下って関所入口でようやく探し物の長塚節歌碑(もののふの過きしいそ回(わ)のあたなみを 勿来の関と人はいふなり)に出会った。
  冷たい雨に言霊は眠っていた。その所為か歌枕の地にはさしたる感慨はなかった。
  高萩ICから袋田の滝まで、阿武隈山塊の西端に位置する奥久慈の峠を二つも越さねばならない。花貫渓谷のある461号線を選んで一つ目の峠を登った。急なカーブが幾つも続く。渓谷の中ほど、花貫トンネルの手前の曲り角の先に赤と黄色が天から降っていた。時間に急ブレーキをかけ、車を路肩に寄せた。
  先客が3人だけの特等席。小さな空地は今年の秋の饗宴の真最中。ひっくり返ったパレットを踏みながらそろりとお邪魔する。木々は、天地の恵みを満身に浴びて、燃立ち、賑やかに空間を充たしていた。名もない空地ながら最高のご接待であった。十歳は若返った気分で、子供たちへの土産の言葉を拾った。


 
(左より文化センター・山村暮鳥詩碑:勿来の関・長塚節歌碑:同・角川源義句碑:花貫渓谷紅葉)

紅葉の写真はクリックで詩「秋の恵みに寄せて」へ
*写真の山村暮鳥詩碑には代表作「雲」(おうい雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうじゃないか/どこまでゆくんだ/ずつと磐城平の方までゆくんか)が夕闇に白く浮び上がっていた。
                           

句集「待春」の見事な序文

  今瀬剛一氏の見事な序文は、貴兄の「対岸俳句会」での地位、主宰者・今瀬剛一氏の愛弟子であることを如実に示していましたし、句集を読み進めるのに、大変参考になりました。俳句の世界には疎い小生も、貴兄の句の素晴らしさが少しは理解できたと云うものです。
  正直言って、いきなり、「今瀬剛一」の名前が出てきたのには驚きました。と言うのは、昨年の秋、袋田の滝のいしぶみを訪ねた時、滝の入口で、氏の句碑に出会っていたからです。読み進める内に「句碑除幕八溝の山の芽吹き急」の句に出会い、貴兄が句碑の除幕に立ち会われたのを知りました。
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