(旭川・宮沢:宗谷岬・宮沢:万葉寺・百田:層雲峡・白蓮)(クリックアルバム1へ)
*百田宗治は明治26年大阪市に生。23歳で詩集『最初の一人』を出版。詩誌『椎の木』の主宰。三好達治・丸山薫・北川冬彦・伊藤整ら若手の詩人たちの良き指導者として活躍。戦後札幌に移住。道内を講演して歩く。愛別町安足間には何度も来遊しこの地を愛した。昭和30年63歳で永眠。安足間,この変わった地名はアイヌ語「アンタロマップ(ふちのあるもの)」の意。原生林を落ちてきた石狩川の激流が山裾で淵を作っていたからの命名でないかと教わった。
層雲峡の原生林にメノコを探す
名勝・層雲峡に走る。その途上にある柳原白蓮歌碑がお目当てだ。
「メノコ沢にある廃校となった清川小学校脇」それ以外の情報は、問い合わせた上川町教育委員会でも解らなかった。メノコ沢は地図にも出なかった。行ってみるしかない。
一本の白い道が原生林を貫いていた。道の両側は白樺とブナの林と荒れ果てた開拓地の跡。時々、人の足跡の途絶えた、荒れた道が顔を出す。「ここかな、いや、もう少し先だ」と何度も迷う。出発前に地図を調べつくして、「双雲別川の手前辺り」と見当をつけてきた。そこは、少し幅の広い旧道が新道から分かれている。手招きの気配を感じた。「そこを入りましょう」と運転手に告げた。荒れた道を辿ると、広場に出た。広場の片隅に「清川小学校跡」の記念碑。「見つけたぞ」と車を降りて辺りを走り回った。
柳原歌碑は新道と旧道に挟まれた林の中に見捨てられていた。碑面にある「ゆくりなく土中にみちたる上代のメノコのすがたおもひかなしも」は資料と照らし合わせながら、何とか判読できた。この歌碑が「何故此処に」の疑問は解けていなかった。碑陰に刻まれた長文は磨耗が激しく判読不可能。そこにはきっと「この地と白蓮の縁」があるのではないかと期待してきたのだが・・・。
まあ、無事に辿り着けたことだけで良しとしよう。こちらと一緒に執念を燃やしてくれた運転手に感謝して車を進めた。
メノコ(女の子)は原生林に隠れていた。道路脇にお地蔵様がぽつんと立って居た。赤い涎掛けが、唯一、原生林に住むメノコの気配を示していた。
層雲峡には秋来たらず
柳原白蓮歌碑の少し先、層雲峡オートキャンプ場を過ぎる頃から、切り立った両側の山肌が柱状節理の岩場に変った。名勝・層雲峡が始まった。石狩川を挟んでこの奇岩が20kmは続くと言う。雲を纏う岩場が頭の上から迫ってくる。初めは幅の広かった絶壁は渓谷の中ほどの温泉街が近づくにつれて、幅を狭めていった。
川と国道を押しつぶす岩壁。温泉街を通り抜けて、2kmほどで、「流星の滝」の案内板が出てきた。狭い駐車場に車を停め、銀河・流星と名付けられた落差100mの二つの滝を緑一色の絶壁に眺める。間もなくこの滝が艶やかな紅葉の衣を纏う時を想像していると首が痛くなった。
滝壺からの轟音が耳に残る。流れは上流の大雪山を秋色に染めているに違いないと確信する冷たさであった。この辺りにはまだ秋は来ていなかった。
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